多摩の森講座 最終回
「細道」の松島の条のテクストの一部、「雄島が磯は地つづきて、海に出でたる島なり。雲居禅師の別室の跡、座禅石などあり。はた、松の木陰に世いとふ人も稀々見えはべりて、落穂・松笠などうちけぶりたる草の庵、閑にすみなし、いかなる人とはしられずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あたらむ。江上に帰りて宿を求むれば、窓をひらきて二階を作りて、風雲のなかに旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。 松島や鶴に身をかれほととぎす 曾良 」― Ojima island I landed was in reality a peninsula projecting far into the sea. This was the place where the Preist Ungo had once retired, and the rock on which he used to sit for meditation was still there. I noticed a number of tiny cottage scattered among pine trees and pale blue threads of smoke rising from them. I wondered what kind of people were living in those isolated houses, and was approaching one of them with a strange sense of yearning, when, as if to interrupt me, the moon rose glittering over the darkened sea, completing the full transformation to a night-time scene. I lodged in an inn overlooking the bay, and went to bed in my upstairs room with all the windows open. As I lay there in the midst of the roaring wind and driving clouds, I felt myself to be in a world totally different from the one I was accustomed to. My companion Sora wrote; Clear voiced cuckoo, Even you will need The silver wings of a crane To span the islands of Matsushima. ―英訳は誰のものかは詳らかではない。三回目、最後の吉増剛造さんの立川でのお話。このテキストを彼は読み上げながら、雄島を写す、吉増剛造の「ロードムービー」。そこにかぶさるのが、ジョン・ケージの音楽と、なんとパウル・ツェランの朗読。そして時々吉増さんが辺りのシーンなどの説明を加える。英訳のほうは、その「ムービー」では読まれなかったが、配られたプリントで読んでくれた。主題は「島々や千々にくだけて夏の海」である、しかし今日は「くだけて」とはよまずに、「くだいて」とはっきり読んだのだが。なぜ、松島の条に芭蕉はこれを入れなかったのか?その理由はまだぼくには定かではないが、吉増さんの話もそれをあからさまには言わないので、よくわからない。ただ、この句にある、「荒ら」「荒ら」としたものが、この扶桑第一の「好風」には不適切であると芭蕉が判断したのではないか、というのがたぶん吉増剛造の推測するところではないのか?講義もそういう筋を底にたたえていたというのが、僕の考え?である。パウル・ツェランのザラザラした無機質のドイツ語、ケージのレクイエムのように響く音楽、こういう「小道具」で吉増が訴えようとしているのは、ぼくには大いなるものが「砕い」てバラバラにしてしまった地上の混沌そのものを言おうといしているのではないかと思われてしかたがなかった。そういう意味で、吉増剛造の「現代性」というのを見る見方があってもいいのではないか。失礼な言い方だが、彼は何か勘違いをしているのかもしれない、しかし、こういう連想、「場面、場面の興味の深さ」のつなぎ方は、吉増剛造しかできないのも確かである。「松の木陰に世いとふ人」の解釈がぼくには面白かった。吉増剛造は、これらの人は「修行者」かもしれないが、もっともっと昔から、こういう人たちはいたのではないか、ホームレス?いや世を捨てた人、云々と言ったのである。羽村の「まいまいず井戸」をとった「ロードムービー」のtake2、これは初回と今回の、2回見せられたが、そこでの吉増剛造のナレーションに「長年かかって、基地の金網にくぎられた、この東アジアの底に、自分は想像の中でウタキを現出させることができたのだ」という意味のことばがあるが、これは興味深い。つまり、「風雅」や「芸術」の底の底にあるものに、穴に、自分はたどりついたというのだ。芭蕉の言う「古人」とは西行や宗祇である以上に、貴重な水甕を頭に頂いて、深い穴井戸を旋回するように昇り降りする「女」たちでもあるはずだというのが、彼の確信なのである。「古」に対する、このような「荒ら」あらしい思い、「想起」が、吉増剛造の「旅」、南方や折口、柳田、ブラジルなどの「旅」のモチーフにあることを、ぼくは今日あらためて考えている。最後なので、終わったあとのドサクサにまぎれるように、挨拶に行った。「あーっ」と言って、「元気そうですね」とぼくの肩をさわってくれた。これは恥ずかしかった。羽生さんの話が出たのもやっぱり何かの縁だったのだろう。これは5年前に勤めていた当時の学校で講演をしていただいたときのテーマでもあったからだ。しかし、それにしても羽生善治という将棋指しの「言葉」を、何年もあたため深め、展開していくことができるというのは、やはり並みの人間にはできないことである。立川の泥鰌屋、昔は汚かったが、今はきれいで、そしてなんということもない店になった「あま利」で、一人でビールを飲んで帰った、なぜか飲みたかったのだ。