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2007年12月08日
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おっと、ビックリひらめき いま記事を投稿しようといつもの場所を適当に(笑)クリックしたら、
「下書き保存」というのを押してしまいました。下書き保存ができるようになったのですね!! 
助かります。これまで、打ち途中で(自分の都合で)時間がなくなり、何度となく消去して
また打ち直していましたショック 携帯からの機能といい、楽天さん、最近頑張ってますねダブルハート 

 

さて、次回の記事では、プチ家出・飯塚編の続きをお届けします。
その前に今回は、サニーが生まれ育った屋敷についてお話します。
以前「サニー家ものがたり ~潮害編~」で少し触れた、あの古い屋敷からです。
いくら田舎町とは言え、さすがにご近所でもあのような古い屋敷はもうサニーの
小学校時代には1軒もありませんでした。

サニー邸は、サニーが小学6年生の頃まで本当に昔ながらの、昭和初期のお屋敷でした。
高床式で通気性がよく、玄関を入ると広い土間がありヒンヤリとします。お座敷の横には
分厚い木材の縁側。少し隙間が空いていて、小さいものをよく落として、高床の下に潜って
取りに行きました。この高床の下にはよく野良猫も迷い込んできていました。テレビアニメ
「サザエさん」宅の床を、もっと高くしたようなものです。今のサニーの腰の高さ程でしょうか。
梁や柱には太い木材が使用されており、「大黒柱」の意味を実感したものでした。

台所、洗濯場は広い土間です。台所と中庭には枯れ井戸があり、台所の土間では保育園児の頃、
料理の手伝いをしながら母に「あいうえお・・」と50音を教えてもらったのを鮮明に覚えています。
洗濯場はとても広くて、通路には排水用の溝が流れていました。ここでよく、お祭りの縁日で
すくった金魚や、家の前の用水路で捕ってきたメダカやフナをバケツで飼っていました熱帯魚
父のウナギの仕掛けや投げ網の保管場所も、ここが定位置。水がふんだんに使えるので、
捕ってきたウナギは大桶に入れ、ここで父が自作の長いまな板の上でさばいていました。

お風呂は五衛門風呂。槙で沸かすので、雨の日は湿っていて火がつきにくいです下向き矢印
当然ながら、小さい頃から斧で槙割りもやっていました。火に当たりながら、祖父が
戦争のことも含め、昔話をたくさん語ってくれていました。唐芋(サツマイモ)をホイルに包んで
残り火に放り込み、焼き芋をつくったりもしていました。五右衛門風呂は、風呂釜の内側や
底が熱いので、踏み板を平行に静めないと大変なことになりますが、小さい頃から入って
いるので、慣れたものでした。よく父と一緒に入りましたが、さすがにある日、断られました泣き笑い 

お手洗いは外にあり、もちろんボットン便所。男性用の小は別にあります。土間から通じる
2階は物置で、家宝と呼べるものは何もありませんが、木箱を開けてみると何でも出てくるので
とても面白く、一度上がったら何時間も下りてきませんでした。中庭を挟んで屋敷がコの字型に
なっており、笹藪や大きなびわの木があって、よく登って遊んだり、かくれんぼしていました。
笹の葉で笹舟も、よく作って川に流していました。七夕前にはご近所や学校からたくさん笹を
もらいに来られていました。

笹薮と屋敷をぐるりと半円で取り囲んで砂利道(私道)があり、その向こうにあおぞら菜園と
倉庫、小屋、車庫がありました。当時は今より広かったのです。私たち姉妹が生まれてからは、
母屋の横に増築して(父が自ら造った)、祖父母と今でいう2世帯住宅になりました。
まだ若かった父が、寝室にキャンディーズのポスターを貼っていたのを覚えています。
今は弾けませんが、あの部屋では父にはギターも教えてもらいました音符
食事をしたりテレビを見たりは、母屋の方でみんな一緒にしていました。

サニーが4~5歳の頃に祖母が他界ました。次女ということで、
大層可愛がってくれていたそうなのですが、あまり記憶がありません・・ 
このとき、父が近所に自らの手でお墓を作り、サニーもセメント塗り塗りして
遊んでいたのはよく覚えています。

その後、屋敷の老朽化のため新築を計画。祖父と両親、二人姉妹の5人の家です。
母と姉は興味なし、小学5年のサニーと父と2人で毎晩顔を突き合わせて図面を作成。
具体的に建て替えを進めようとしていた矢先、祖父が突然、帰らぬ人となりました涙ぽろり
小学6年のことです。不幸があってから1年間は屋敷に触ってはいけないので、その間に
計画していた祖父の部屋のない図面を父と引きなおし、祖父の一周忌を終えてから着工。
まずは古い屋敷を取り壊すのですが、家族揃って傍でクレーン車で取り壊されるのを
見ていると、いろんな思い出が走馬灯のように駆け巡り、とても寂しいものでした。
「おじいちゃんの家が、なくなった・・涙ぽろり

仮住まいは現存する倉庫。これまた父がコツコツと造って、サニーもセメント塗り塗り
しましたが、家族4人で1年近く住みました。ロフトもあり快適で、ピアノやタンスで仕切り
部屋を作っていました。台所も、普通のシンクとガス台を持ってきていました。
水道・電気の配線も全部父がやりました。

現在の家は、昔より少し奥に寄せて建てています。祖父の他界に伴い、土地の一部を
遺産分与で父の弟家族に分け与えたためです。サニーが高卒後大阪に出て、ある日
久々に帰省すると、そこには叔父家族の家が建っていました。今も隣りに住んでいます。

以上がサニー邸の変遷です。次回は飯塚の「旧伊藤伝右衛門邸」という、
旧サニー邸とは違ったご立派なお屋敷をご紹介いたします。



なお、おそらく頂戴するであろうコメントが予測できますので先に申し上げておきますが・・
「サニーのアウトドア好きはこの屋敷が原点であった」と思われる方も多いかも知れません。
確かに、この育った屋敷の環境もありますが、同じように育った姉は全く魚釣りやら
セメント塗ったりなどには興味がなく、昔から正反対でした。結局は性格の問題かと
思います。私はそういうのが大好きだったので、自然と父と趣味が合い、いろんなことを
教えてもらいました。手先のとても器用な人で、その影響は多分にあります。
この経験と知識は、私の大切な思い出であり、また、いまや財産の一つですハート(手書き)






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最終更新日  2007年12月09日 23時41分51秒
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