懐かしの地へ・・
貴志駅から和歌山駅まで『いちご電車』で戻り、JR線で大阪駅まで。大阪・梅田で大学同窓会の講演会・総会・懇親会に出席予定でしたが途中で予定変更。思い出のあの地を久しぶりに訪れてみたいと思い、講演会をスキップして、大阪駅で乗り換えて、岸辺駅(吹田市)で乗り越し精算、下車しました。20分ほど歩くと、学生時代にアルバイトしていたファミリーレストランが健在でした。いろんな娯楽施設が増築されてはいましたが、レストランの内部はほぼ当時のままです。大学1回生の秋から4回生の秋まで、約3年間続けたアルバイトです。 大学1回生で、バススチュワーデス(観光バスの車掌)や温泉ホテルの住み込み仲居さんをやっていたサニー。平日でも出来るアルバイトを探していたら新しく開店するファミリーレストランのオープニングスタッフ募集の記事を見つけて応募、面接のオジサンに、「ぜひ一緒に働きたいですね」と言われたのが印象的です。ホールと厨房との希望を聞かれましたが、私は「お任せします」と答えました。ずっと“女の子”として扱われるアルバイトばかりで、私にはそれしかないのでしょうか?男性と対等に働きたい。でも、接客ももともと好きだし・・ 葛藤がありました。どちらもやってみたいので、お店側のご都合に一任しようと思ったのです。 後日、正式な採用の連絡が来た際に、「厨房で」とのことでした。昼間はホールも厨房もほとんどがパートのご婦人方、夕方以降は学生アルバイト中心です。社員は3人しか居なくて交替勤務なので、ほとんどパート・アルバイトで成り立っていました。開業後しばらくすると、その勤務状況や技術から、ランチタイム・ディナータイム・ナイトタイムそれぞれひとりずつ“時間帯責任者”が選定されました。ランチはパートのご婦人、ナイトは新聞記者を目指して就職浪人中のお兄さん、ランチもナイトも働くことのあったサニーはディナータイムの責任者となりました。その3人では定期的に責任者会議をして、意見交換をして問題点を解決したりお互いの時間帯で、どうしてもらっていればもっとスムーズに仕事に入れる等アイデアを出し合って、より良い運営に努めました。ランチタイムはランチの責任者さんが、ディナー・ナイトに関してはサニーがパート・アルバイトのシフトを作成することになりました。みんなそれぞれに働きたい時間の都合があり、なかなか大変な作業です。各スタッフの得意分野、全体のバランス、トレーニングを考えながら組みました。 3人しか居ない社員で定期的に経営戦略会議があるのですが、入店1年後ぐらいから、私だけ準社員扱いとなってその会議にも出席するようになり、経営面でもとても勉強になりました。アルバイトの面接も、任せていただけるようになりました。自分が採用した子が、入店して、育ってくれるかどうか・・?当然、育てるのにも必死になります。お店側、巧いなと思いました。“人にモノを教える”ことが、いかに難しいかということも勉強になりました。自分は解っていることを、解っていない人に教えるということ。根気よく、また、そのスタッフによって指導の仕方も変えます。何より、教えることにより、私自身がたくさんのことを教えていただきました。 厨房のお仕事は、なんでもやりました。皿洗いはもちろん、サラダ等を作る担当や、ハンバーグを焼く担当、グリドルの前の温度は摂氏50度を超えていますので、コック服がびっしょりになるほど汗をかきます。週末のディナータイム等は皿洗いが大忙し。かなり必死に洗っても食器が足りなくなります。私は速さには自信があったので、敢えて週末の繁忙時に(しんどいから、みんなが嫌がる)皿洗いをすることも多かったです。食器を洗って運んで、サラダ用のお皿などは、提供時には冷えているように冷蔵庫の奥へと補充しておきます。敢えて忙しい時に皿洗いを買って出るのには、意図がありました。全部のスタッフの状況を見て、間に合っていないところのフォローに入るのです。重いものを持ち続けた結果、大学4回生の時には握力が「50」ありました!ホールスタッフが手薄の場合は、ホールにも出ていました。 夜の責任者としては、食材の在庫を調べて翌々日の食材を何をどれだけ仕入れるかも大事なお仕事。経験からの“勘”でした。もし足りなくなっても、近所のスーパーで調達出来るものもありますが特殊な食材は急きょ調達することが出来ず、早めに閉店するしかないです。それでも、社員さんは任せてくれました。自由に泳がせていただいて、やりやすかったし、やりがいともなりました。 大学1回生の頃だけ、実家から毎月仕送りをしてもらっていました。1回生のときにアルバイトで稼いだお金は、通学のための原付バイクと勉強で必要なワープロ(まだPCの時代ではなかったです!)を買い、春には高校時代にホームステイしたホストファミリーに会いに渡米しました。2回生以降も、親は仕送りを続けてくれましたが、いっさい手を付けず、アルバイト代で自活し、卒業時に郵便局のカードをそのまま親に返しました。アルバイトは、多い時には月に300時間を超えていたし責任者だったので時給も高く、じゅうぶん自活したり旅行も出来ました。 サニーの学生時代そのものと言ってもよいほどお世話になったお店です。大学の勉強はあまりしなかったけど、サニーを育ててくれたお店です。いまだ、健在でした。良かった。本当に嬉しいです。お若い店長さんと、少しお話し出来ました。いま、ずいぶん経つのにオープニングスタッフでおひとりだけパートとしてずっと残っておられる方がいらっしゃるそうです。それは、一緒に会議を重ねてきた、ランチタイムの責任者のパートの方でした。残念ながらこの日はお目にかかることが出来ませんでしたが、名刺だけ言付けてお店を後にしました。なんとも言えぬ、青春時代の思い出が熱くこみ上げてきました。 大阪駅に着くと、「旅立ちの鐘」が出迎えてくれました。1902年頃まで、発車の合図として使用されていたそうです。サニーも、ここにたどり着いたり、ここから旅立ったり・・お世話になった皆さま、本当にありがとうございます。人生そのものが、旅ですね。