(「つきあう」という言葉、あるいは「結婚」という形が、男女をお互いに束縛し合う(所有し合う)ためのものだ(あくまで私の考え、先入観です)ということをカミングアウトし、すっかり更新する気がなくなっていましたが・・・。まあ、今日はアルコールが回ったのでちょっと進めてしまいます。)
前回までは、
性の違いで惹かれ合い、相手を所有(束縛)したくて愛の形式をつくる。
まあ、言わずもがな的な展開ですが、
まず何より生きるためには必要な食料や水を手に入れなくてはならない。
しかし、すぐ目の前に用意されているわけではなく、自分か誰かが用意しなければいけない。
誰が?
自分一人なら迷うことなく自分が働くしかない。
しかし、結婚したら、男が働き女性は(うまくいけば)家事をする、というように仕事を分担できる。
女性は結婚を考えたとき、「家で家事をして夫の帰りを待つ」という生活をまずイメージするだろう。
自分の身近な既婚女性を見ても仕事がしたくて働いているよりも、
1.夫の稼ぎだけでは収入が少ない
2.家で家事だけしててもつまらない
3.自分の自由になるお金が欲しい
などというようなことで働いているように見える(もちろん仕事したいからという人もいるけど。家事は分担で、ですか、うーん)。
「だんなの給料だけじゃなかなか厳しいからねー」といいながらしっかり太ってる人もいるし。
わたし的には納得いかないのですが。もしそういう病気(太ってしまう)ならしかたないけど。
話はそれてしまいましたが、
恋愛が性欲、対象に対する所有欲、そして更に将来の生活の分担、更にはその生活の永続保証としての結婚という社会的形式に至り、ついには性を感じさせない存在にお互いがなってしまう(後は家族によるつながりが残る)。
現実はこうなのだろうけれど、あまりにさびしい結論だ。
相手を好きだという気持ち、その気持ちの中に打算的なものをきっぱり排除したい。
(いや、してほしい、が本音か。)
つきつめれば性なのだろうけれど、確かに「好き」だと心が感じる、実感する。
「どうしようもなく好き」という気持ち、ずっとこうしてそばにいたいという気持ち、相手も自分を必要だと思っていることが伝わってくる幸福感。
それだけでいいと私は思う。
自分がそういう気持ちになれるというだけで幸せだし、相手を大事な存在だと実感する。
そう感じられるだけで私は十分だ。
(しかし、そううまくはいかないなあ。それは、・・・・。
更に続きます。しかしいつになるのかな。)