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年を重ねる喜びのひとつに、以前はわからなかったものの価値が見出せることが挙げられる。
わたしにとって、モーツァルトの音楽が何故、あれほど評価されるのかは、長年の謎だった。というより、彼の音楽とどう接したら良いのか、その糸口が見つからなかったと言って良い。 自分の勝手な感覚なのだけれど、モーツァルトの作品を聴いた時の感覚は、三島由紀夫の小説を読んだ時の取りつく島も無いあてどなさを想像させる。どちらもぴたりと自己完結していて、鑑賞する側である自分を、どうやって介在させたら良いのか、途方に暮れてしまう。それに引き換え、シューベルトやブラームス、シューマンの音楽はとてもオープンなように思える。何故って、彼らは、自分の感情の苦しさを、そのまま、音楽に表現しているから。聴きながら、自分の感情を、作曲者の感情に共振させることが出来る。特に、苦しい時、そうやって共振させて感情を迸らせれば、聴き終わる頃には、大分、すっきりする。ずっと、そう思っていた。 ある時、熱狂的なモーツァルトのファンである友人が「シューベルトやブラームスは、どんどん地下にのめり込んでいく音楽だ。ベートーベンは水平を動いている。モーツァルトだけは、天上に向かう垂直の音楽なんだ。もう、別格なんだよ」と言った。何を意味しているのか、さっぱりわからなかった。当時、シューベルトは自分にとって本当に大切な存在だったから、何だか、自分の掛け替えのない友人が侮辱されたような気がして、その後、口をつぐんでしまった。 今年はモーツァルトの生誕250周年で、先日、彼のオペラを観る機会があった。会場に行く前、落ち込むことがあって気分が沈んでいたのだが、登場人物を演じる歌手たちがぴたりと重唱する声を聴いているうちに、重苦しい気持ちがいつの間にか、雲散していた。 はっとした。「モーツァルトは天上に向かう垂直の音楽」という言葉がぱっと思い起こされた。こういうことなんだ! まだ、モーツァルトの熱狂的なファンとはいかないけれど、少なくとも、以前あったような退屈な感じは無くなったと思う。喫茶店などで、モーツァルトの音楽が流れると、じっと耳を澄ませるようになった。豊穣な世界の入り口に立ったのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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