蒲池法子と酒井法子
ここにスタートがそっくりの2人の法子(のりこ)がいる。2人とも九州の福岡出身である。この2人は歌手になる希望を抱いて上京した。サンミュージックの相沢秀禎会長に認められたのだった。そして2人とも東京の堀越高校を卒業した。蒲池(かまち)法子はここで松田聖子と名づけられた。酒井法子は本名のままデビューとなった。これにはわけがあるが、それを見抜いた相沢秀禎は、さすがに鋭い。酒井法子は、イラストレーター、漫画家としての才能ももっていたという。中学生の頃から、「のりっぺ」とあだなされていた法子は、その頃「のりピーちゃん」というキャラクターを生み出し、日本自動車工業会の交通安全ポスターにも使われたほどだった。相沢は最初、「法子」は固すぎると考えたに違いない。松田聖子の例も、頭をよぎったかもしれないが、この「のりピー」というキャラが、おきゃんなレディというキャッチフレーズにぴったりだ、と思ったのだろう。これが「いただきマンモス」「うれピー」という「のりピー語」を生むことになった。売り出しは大成功だった。2人の法子は順調にスターへの道を突進し、運命はそのまま光輝くかに見えたが、2人の運命の分かれ道は、父親が死んでから後の環境にあったのではないかと私は推測する。父親か亡くなっても、松田聖子は、早くから福岡から上京していた母親がいて、娘のために精神的な支柱となっていた。一方、酒井法子は、不幸にも、実の母親とは幼いときに別れ別れとなったままだった。若い女性タレントにとって、家族の支えがあるかないかは、とても大きい。松田聖子の場合は、結婚、離婚、不倫などなど、ありとあらゆる喜びと悲しみを経験しながらも、常にそばに母がいる、という心の安定感があったのかもしれない。いわば、男に頼らずにすんだのである。ところが酒井法子は違った。両親との別れによって、男に頼らざるをえなくなってしまった。そして結婚したのが、高相祐一だった。酒井法子の運命にひび割れができたとすれば、このときだろう。この夫によって、覚醒剤をすすめられたことで、順調だった生活は一挙に暗転し、転落してしまった。この覚醒剤だけは、禁断の木の実だった。松田聖子は見ようによっては、非常に奔放だが、同世代の女性にとっては、むしろ憧れであり、自分たちができないことを、代わって行動してくれているようにも思えるのだろう。むしろ松田聖子に親近感をもちこそすれ、去っていくファンなど1人もいない。しかし、麻薬、覚醒剤は違う。一部の熱狂的なファンは、このあとも、のりピーから 離れはしないだろう。しかし多くの女性たちは、そうはいかない。どんなに好きでも、夫や子どもをもっていれば、いつまた再犯で、逮捕されるかわからない歌手に拍手を送るわけにはいかないからだ。結局、酒井の場合は相当厳しい制裁を受けることになるだろう。2人の法子の運命は、ここで決定的な差となってしまった。しかし今回の場合、酒井本人には、こうなることは、薄々わかっていたはずなのだ。運命の神は、それを傲慢にも見逃した酒井を、許さなかった。