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たとえば京都には古い街並みが残っていてというか残されていてというか、そんな街並みに浸りたくて訪れる観光客の期待に十分すぎるほど応えている。古い建物が現存し整備されていることはもとより、古い建物をとりまく周囲の環境においても気を配られていることがわかるのは、銀閣寺を高台から見下ろすような所に立ったときである。高台から見下ろす銀閣寺は美しい。なぜならセカイの中心にあるからだ。京都の街並みが銀閣寺をとりまくように作られている。東寺の五重塔が左側にあったり、夕日が右側にたれさがっていたり、その他のオブジェが全て銀閣寺を中心に放射状に配置されているように見える。
おそらくそのように設計されたのであろう。放射状に配置されているといったが、あくまでも私的なイメージとしてである。であるが、セカイの中心であるというようなイメージを抱かせるほど優れた設計であることにはかわりはなく、何百年の時を越えた今なお、景観を含めた美しさが変わらないように保たれているということである。 聞いた話によると自治体の政令で建物の高さや外観などがきっちり定められているらしい。無駄に高い高層ビルや品のない商業施設の看板やらが乱雑に並ぶことがないように、銀閣寺の高台から見下ろした景色に異物として取り込まれないように、街全体がテーマパークのように統一感のもと構築されている。パチンコ屋も自販機もコンビニもいくつもあるのにもかかわらず、それらは京都市街地のオブジェとしてふさわしいたたずまいを兼ね備えているのである。 経済の発展がもたらす市民の豊かさ、というひとつの尺度からすれば、効率的なオフィスビルや便利な商業施設が多ければ多いほどいいということになるが、あまり効率的であったり、人の目をひきすぎたりしてはいけません、というようなルールがあって、それを守ろうとする秩序があって、そのことは銀閣寺の美しさを壊すことがないことに繋がっている。 経済的に豊かになろうとする営みや、古いしきたりを破壊したい衝動はおそらく、ニンゲンの営みとしては正道に違いない。それらは「欲望」と言い換えてもいい。欲望なくしてニンゲンは発展しない。ハッテンは欲望からウマレル。センプウキに向ってワレワレワというと宇宙人になれるけど、あるいは京都人はニンゲンではないのかもしれない。 さておき、欲望に忠実であろうとするのは人として正当なことであるといまさら断定する必要もないけれども、欲望の果てに銀閣寺を見下ろす風景を台無しにしてしまうのを忌むことも、人であればこそ持ちうる性質であることが、まったく物事を複雑にしている。 (つづく) (注釈)ゴールデンウィークだからといって京都に旅行しながらこれを書いている、というわけではない、というところがさみしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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