カテゴリ:大庭の歴史
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今日は曇りで少し、肌寒く感じたが、北海道では30度だったとか 明治史料室に行く 耕余塾はまさに、東の松下村塾だったと感じる 小笠原東陽先生は、自らも東(日本)の陽明学者、「東陽」と名乗ったそうです。 散歩の途中で、よく見る石標の俳句の作者が水越良介で、この人も耕余塾の出であることが 分かった。 神明神社の大ケヤキの前の長屋門のある家が水越家です。長屋門はもとはカヤぶきでした。この辺りから西は昔の大山道の面影が今も残っています。水越家は、 江戸時代、このあたりの名主を務め、明治中期から昭和初期にかけて地方自治に貢献した水越良介の生家でもあります。良介は、藤沢の羽鳥にあった小笠原東陽 の耕余塾に学んだ後、地元の小学校の教師になりました。明治15年(1882)21歳の時、赤羽根村ほか3か村(組合村)の戸長に推され、後に松林村長、 高座郡会議員、神奈川県会議員を務め、大正9年(1920)に茅ヶ崎町長に就任しました。当時、学校改築に端を発し、町政が紛糾していましたが、この解決 に努め町政を安定させました。また、「老桃」の号を持つ俳人としても知られ、同家から近い墓所の碑に「出来稲や 腹かかへゆく 村夫子」という句が刻まれ ています。 (根)[茅ヶ崎市史ブックレット6 茅ヶ崎の歴史遺産 (根) ] (ネットより) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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