中也と泰子
17才の中原中也と20才の長谷川泰子が同棲していた家が京都の下鴨神社の手前、今出川通りと河原町通りの交差点近くに、今ものこっているとのことで、見に行って来ました。何ということもない普通の民家。この二階でふたりが暮らしていたのかと思うと、辺りの風景も何やらゆかしき心地ぞす、である。 今年は中也生誕百年の年ということで、若い頃にその詩に親しみ、モノ真似にて、中也まがいの詩をつくったりしたこともある我輩としては、サイクリングがてら中也に敬意を表して来た次第。ただ今は、鴨川べりで川風に涼んで居る。<追記> 中原中也全集(角川書店)第5巻の月報Vに中垣泰子(長谷川泰子)が文章を寄せている。それによると、此処に引っ越す前は椿寺の隣に住んでいたようです。「水道もなく、濁った古井戸のある二階を間借しました。二間あって、片方を勉強部屋にしていました。その勉強部屋は昔風な暗い小さな窓が一つあって、外から見ると、壁が多くて、私はスペイン窓と呼んでいました。」と書いている。「私たちは・・」と書いていないから、「スペイン窓」と名付けたのは泰子の方であったのかも知れない。此処での生活のことを「中原と私にとって、一番静かな生活を味った時でした。」とも書いている。 中也全集の中也年譜によると、1920年4月に中也は12番で山口中学に入学するが、その後どんどん成績が下がり、1923年3月に落第。同年4月に京都立命館中学に転校し、京都に下宿する。23年秋から24年春頃までの間に、知人の永井叔の紹介でマキノプロダクションの大部屋女優であった長谷川泰子と知り合う。24年4月17日長谷川泰子と同棲。上京区今出川中筋通り高田大道方に住む。とあるが、上の泰子の文章からは、同棲はもっと早くて、椿寺の下宿に於いて始まっていたような感じでもある。 因みに、此処に引っ越す前の下宿屋があったという場所の隣にあった椿寺というのは、2015年5月の「京都・蕪村銀輪散歩」で小生も立ち寄ったことのある地蔵院のことでしょう。