手話通訳
本日の読書会は、昔、智麻呂氏がK教会で牧師をされていた頃、聾者の方にも牧師の説教がその場で伝わるようにと始められた礼拝時の手話通訳を担当されていたY氏ご夫妻に、ご参加戴いた。Yご夫妻はその頃は聾学校の先生をされていたのであるが、詳しい経緯は知らないが、智麻呂氏とYご夫妻との間で何らかの話があり、聾者の方も参加できる礼拝が実現したのであったのだろう。もう40年以上も前の話である。 Y夫人の方が最近になって息子さんに智麻呂氏に会いたいと仰るようになったとかで、息子さんが色々問い合わせをされて、智麻呂氏の現住所・電話番号をお知りになり、ご連絡して来られたたことから、今回の運びとなったものである。Y夫人にとってはK教会での智麻呂氏との出会いとそこでの聾者礼拝における手話通訳の活動が、幸せな思い出として心に残っているということでもあるのだろう。 Y夫人のお父様は聾者であったとのことだが、日本の手話の原形を作られた方でもあったらしく、Y夫人もそれを継承して、聾者に福音を伝えることを己が使命として、夫のY氏と共に手話通訳に生涯を捧げて来られた方である。 そんな訳で、折角智麻呂氏に会いに来られるなら、読書会開催の日に来て戴いて、Y夫人に手話のことなどをお話戴こうということに、恒郎女様の機転にて、なったという次第。 手話通訳の草分け的な方であり、特にキリスト教会に於ける手話言語では第一人者と言ってもよい方の話である。最近の教会での手話通訳者が本来の手話言語の意味を理解しないままに通訳するので、正しく伝わらなかったり、誤解や失望を聾者に与えている面があると、嘆いておられた。「神」や「聖母マリア」や「キリスト」などの手話表現についても、教本自体に不適切、誤りが多々あるとか。 美しい日本語がどんどん失われ、乱れていると言われるのと同じことが、手話言語の世界でもあるということなのか。所作の持つ意味も変ってゆくとなると、手話言語もその影響を受けざるを得ず、色々と難しい問題があるのかな、と思ったり。日頃手話について考えたこともなかったので、夫人の仰っていることが正しく理解できているのかも怪しいのであるが、美しい、人の心に響く手話言語であるべき、とりわけ教会に於ける手話言語はそういう側面を失うと、「聖母マリア」がただの「若い女」になってしまったりもしかねない、というようなことを仰っていたのかな、と感じた次第。手話言語にも形としての美しさとか所作の優美さとか、表情があるのでしょう。単に情報を伝えるだけが言語の役割ではなく、言語の持つ表情というものがあり、我々はその表情に含まれている意味補完的要素と共に情報の交換をしているのである。場面によっては、この意味補完的要素が主役となることもあるのだ。だから、美しい言葉とか、そうでない言葉とか、言われもするのだ。手話言語もきっと同じなんでしょう。 それにしても、手と指の動きと形であのようにも色々と複雑なことが伝えうるという人間の能力に、驚嘆である。言語は左脳の領域とか言うが、手話言語は何となく右脳が支配しているみたいな気がするのだが、実の処はどうなのだろう。 まあ、色々と日頃考えなかったことを考えさせられた本日の読書会であり、面白くもありました。また、Yご夫妻を車でお連れ下さった息子さんとも交流を持てたことはよかった。彼もまた祖父、両親からその素晴らしい手話を継承されているのでもある。 もうY夫人は80歳、Y氏は83か84歳である。どうぞお二人ともいつまでもお元気に長生きされますように、お祈り申し上げます。