河内長野へ銀輪散歩・観心寺
<承前> 観心寺門前到着は11時過ぎ。自宅からは約3時間、滝谷不動からは約1時間を要したことになる。 観心寺という名は、母方の祖父の出身地がこの近くとか、母の伯母がこの近くに住んで居られて「観心寺の〇〇おばさん」というような呼び方を幼い子供の頃、母の実家で耳にした記憶がぼんやりとあるなど、その名は予てより承知していたのであるが、訪問するのは今回が初めてである。(山門)観心寺・公式ホームページより 観心寺・Wikipedia 観心寺は大宝元年(701年)役小角によって開創。雲心寺と称した。大同3年(808年)空海が訪れ、北斗七星を勧請したという。七つの星塚が今も境内に残り、これを一巡するとその年の厄が払われると言われている。 河内の北に星田妙見宮、南に観心寺と北斗七星(もっとも、星田は北斗八星だが)に因む社寺があるのも面白い。 空海は寺の造営を一番弟子の実恵(じちえ)に任せ、天長4年(827年)寺の造営が始められる。空海は高野山を開くための拠点として観心寺を整備したと見られている。 また、観心寺は楠木氏の菩提寺であり、正平14年(1359年)には後村上天皇の行在所になるなど、南朝ゆかりの寺である。山門脇には楠木正成銅像があり、山門を入ってすぐ右には後村上天皇御旧跡碑が、境内奥には後村上天皇桧尾陵がある。(後村上天皇御旧跡碑)(金堂へ)(金堂<国宝>)(同上)(建掛塔 左に見えているのは阿弥陀堂) この建掛塔というのは、楠木正成の発願により三重塔の建設が始められたが、彼が湊川の戦いで討死したことから一重目で工事が中止されたものだとのこと。(御影堂) (7番目の星塚) (後村上天皇陵参道入口) 7番目の星塚の向かいに後村上天皇桧尾陵参道入口がある。 長い石段の道を登って行くと漸くに御陵に着く。 (同上・参道)(後村上天皇陵)<参考>後村上天皇・Wikipedia 後村上天皇は後醍醐天皇の第7皇子。南朝第2代目天皇である。母の新待賢門院の墓とされる陵墓参考地も観心寺境内にある。写真には撮ったのですが逆光で且つピンボケ写真となってしまったので掲載は没です。(開山堂<本願堂>) 後村上天皇陵参道入口に戻り、左に行くと開山堂。その奥に楠木正成首塚がある。湊川で戦死した正成の首は足利尊氏の命により観心寺に届けられ、この首塚に祀られたということのようです。(楠木正成首塚) 新待賢門院墓の前の石段を下って行くと山門への道に出る。 その脇にある建物は、拝観受付で戴いたパンフレットによると「拝殿」とある。寺は「堂」「院」、神社は「殿」という常識を破るものだが、神仏分離前にあっては、そういう常識はなかったのでしょう。拝殿というからには、この建物の前の反り橋の先にある鎮守堂の詞梨母天を拝するための建物であるのだろうか。(拝殿)(拝殿前の反り橋の奥に見えるのは鎮守堂<詞梨母天堂>。) 境内には、梅林の下などあちらこちらにヒガンバナが咲き匂っていました。 ヒガンバナの出迎えを受け、ヒガンバナに見送られて、お彼岸中日の前日の観心寺を後にしました。(境内のヒガンバナ)(同上)(同上) 山門を出た処で時刻を見ると既に正午を過ぎていました。よって、山門前のうどん屋さんで昼食。帰り道は楽々。往路の上り坂を下るだけ。爽快に一気に駆け下る。 ということで、帰宅は午後3時。復路は途中で花や虫やその他の写真を撮ったりしての道草を含めても2時間半を要しただけでした。以上で河内長野銀輪散歩終了と相成りました。(石川の土手にもヒガンバナが)(見上げるとセンダンの実が鈴なりに) (同上)ーー完ーー