山部赤人神社と赤人讃歌
(承前) 昨日の記事の続編です。 JR相生駅に帰って来てトレンクル(折りたたみ自転車)をたたんでいると、電車が入って来て、出て行く気配。午後2時19分発の電車が出てしまったようです。ホームで待つこと25分余。午後2時47分発に乗車、姫路着3時6分。 再びトレンクルを組立て出発。実はここ姫路には22日にも来ていたのでありました。小生の手許にある全国の万葉歌碑の所在地を記載した2005年発行の冊子に今在家南第二公園に赤人歌碑があるとあったことと、津田天満神社境内に山部赤人神社なるものがあるということを知ったことから、これを訪ねるべしでやって来たのでした。しかし、今在家南第二公園にはそれらしきものがない。黒御影石貼り付け・台座とあるから、公園中央にある忠魂碑だったか、大きな碑の台座にでも貼り付けてあったのが、剥がれ落ちてしまって、そのままになっているということかも知れない。そんな次第で、山部赤人神社だけを撮影して帰宅したのだが、帰宅後、津田天満神社御旅所にも赤人歌碑があるという情報を入手。今回28日に相生を銀輪散歩するついでにと再挑戦したのでありました。 姫路駅南口から駅前の大通りを南へ、東延末交差点を右折、西へ。延末1丁目交差点を左折、南へ。山陽電鉄網干線の下を潜って、飾磨工業高校の先の交差点を右折、西へ。船場川に出る。船場川に沿って南へ。(船場川・加茂橋) 加茂橋の一つ下流の橋が国道250号の通る橋で、思案橋という名前である。これを渡って対岸(右岸)の道へ。直ぐ下流に朱塗りの橋があり、これも思案橋という名前。この朱塗りの思案橋の西詰にあるのが、津田天満神社御旅所。ここに赤人歌碑があるというのである。(船場川・思案橋)(津田天満神社御旅所) 菅原道真が太宰府へ配流される際に、この地に上陸し、暫し休息。この先を陸路にするか海路にするか思案されたので、思案橋という名が生まれたという伝説があるそうな。 (同上・道真歌碑) (同上・由来) ご覧のように道真公の銅像と「東風吹かば・・」の彼の有名な歌の歌碑が目だって、わが求める赤人歌碑が見当たらない。しかし、少し回り込むと片隅にもう一つの碑がありました。これぞ赤人歌碑かと、近付いて見ると、果たしてそうでありました。(同上)(赤人歌碑) 歌碑の歌は、昨日の記事で紹介した辛荷の島長歌の反歌の一つでした。風ふけば 波かたゝむと さもらひに 都多(つだ)のほそ江に 浦かくりをり (山部赤人 万葉集巻6-945)<風が吹くので波が立つのではないかと待機して、都多の入江に浦隠れしています。>(津田の細江) 都多(津田)の細江というのは、万葉集巻15-3605の作者不詳の歌「わたつみの海に出でたる飾磨川絶えむ日にこそ我が恋止まめ」に出て来る飾磨川の河口付近とされる。飾磨川という川は現存しない。飾磨川は船場川のこととするのが有力説であるが、野田川だという説もある。 ほのぼのと 津田の細江の 水尾つくし まだ夜は深き 月の入り汐という道真の歌がこの地にのこされているとのことだから、ここの道真歌碑は上の「こち吹かば~」などと言う月並みな歌にせず、この歌にすればよかったのにと小生も思案橋でありました(笑)。 この御旅所の前の道を西へ500mほど行くと、22日にも訪れた津田天満神社である。折角なので、もう一度写真を撮ってみた。(津田天満神社)(同上・由緒) 津田天満神社そのものには用はない。境内にある山部赤人神社と山部赤人讃歌の碑に用があるだけ。特に山部赤人讃歌の碑の写真が22日撮影のものは少し不鮮明で一部文字に判読し兼ねるものがあったので、その確認をしたかったのでもありました。(同上) 山部赤人神社は正面の拝殿の左側にあります。 何故、此処に赤人神社があるのかは存じ上げませんが、「津田の細江」の赤人の歌に因んで、津田天満神社の境内に地元の方たちによって近年になって創建されたものであるのでしょう。(山部赤人神社) 山部赤人讃歌の碑はこれです。今回は鮮明に撮影できました。(山部赤人讃歌の碑) 山部赤人讃歌 (作詞:荒木良雄 作曲:徳久 孝) 神さびて 高く貴き 富士のねを ふりさけみれば 渡る日の 影も隠ろひ 白雲も い行きはばかると 詠みあげし 歌のすがたの けだかさよ 山部赤人 ほめたたへむ 春の野に 菫摘みつつ 一夜ねし 夢美しく 和歌の浦 たづ鳴き渡り 象山の こぬれの小鳥 さやぎゐる 歌のしらべの すがしさよ 山部赤人 ほめたたへむ 唐荷島 めぐる浪間の 鵜の鳥に 吾家を思ひ 風吹けば 波か立たむと 浦隠る 津田の細江に のこしたる 歌のひびきの なつかしや 山部赤人 ほめたたへむ (津田天満神社鳥居脇の山部赤人神社碑) 津田天満神社から更に西へ1km足らずで今在家南第二公園であるが、念のためもう一度行ってみた。やはり赤人歌碑はなかった(笑)。 帰りなむ、いざ。 日も暮れかかる。 船場川に戻り、朱塗りの思案橋を渡った処で、川沿いに下流へと走り、浜手緑地をかすめて野田川に出ることとする。飾磨川が船場川ではなく野田川だという説もある以上は、野田川にもご挨拶という次第。両川の河口部は600m位しか離れていないから、津田の細江はどちらの川の河口部でもいいと言うものではある。(野田川河口付近) 地図で確認すると、野田川に沿った道を北へと行くと県道62号になる。県道62号は往路の道である。これを北に向かって延末1丁目交差点まで走れば、姫路駅はもう近いのである。(野田川畔の民家)(魚屋堀跡・志士上陸地の碑) 県道62号に入る手前でこんな石碑がありました。 幕末の生野の変で平野国臣ら勤皇の志士が此処から上陸したということのよう。 <参考>生野の変・Wikipedia(姫路城) はい、最後は、やはり姫路城です。 もっとも、これは22日撮影のものであります。 <参考>「山部赤人歌碑を訪ねて」シリーズ記事一覧ほか 山部赤人歌碑を訪ねて 2016.1.12. 山部赤人歌碑を訪ねて(続) 2016.1.19. 山部神社と赤人寺 2016.1.21. 雪の中の東近江銀輪散歩 2016.1.22. 万葉岬・山部赤人歌碑を訪ねて 2016.1.30. 富士山と山部赤人万葉歌碑 2011.5.13. 銀輪万葉・兵庫県篇