阿倍野から堺へ(その1)
4月28日は、阿倍野から堺まで銀輪散歩して参りました。目的は二つ。 一つは、四天王寺七宮めぐりの際に茶臼山に登ったことをきっかけにして、大阪5低山なるものを知ったのであるが、その5低山のうち、小生が未だ訪ねていないのは聖天山であるということが判明したことに加えて、この聖天山は吉田兼好(占部兼好)所縁の地でもあるということを知ったので、これは是非とも訪問せねばなるまいと思ったこと。 <参考>七宮めぐり余録 2017.4.23. 今一つは、堺市のマンホール図柄に旧堺燈台が描かれていて、なかなか味のある姿であったので、これを見てみようと思ったこと。 <参考>銀輪散歩・マンホール(その9) 2017.4.24. そして、長年、訪問してみようと思いつつ果たせていない、北畠顕家の石津川畔の墓も訪ねてみようというのが今回の主旨です。 実は、今月19日にも阿倍野筋を南へと走っているうちに、大和川を渡って堺市に入ってしまい、ならば与謝野晶子生家跡や千利休屋敷跡などを訪ね、ついでに堺市役所の21階展望室から仁徳天皇陵でも見てみようと思い付いたのでしたが、下調べの十分にされていない銀輪散歩の悲しさ、千利休屋敷跡は見つけられぬままであったのでした。その後の調べで、その場所は、旧堺燈台へ行く途中にあるので、往路か復路かどちらかでこれに立ち寄ることも可能、というもう一つの隠れた目論見があったのでした。 ということで、19日と28日の銀輪散歩を合併して一つの銀輪散歩記事に仕上げることとします。多分1回では済まず2回か3回の連載になるだろうと見込まれます。それを見越して、タイトルにも(その1)を付すという用意周到さでありますが、さて如何相成りますやら。 自宅を出てから天王寺駅前までのコースは19日と28日とでは微妙に異なりますので、原則28日のコースで記述することとし、19日のコースもその日の写真を掲載する必要に応じてこれを記述します。と言っても、おおよその見当をつけて西へ、南へと、いつもながらの適当なコース取りにて、今となっては何処をどう走ったのか記憶が曖昧になっている部分がかなりあります。 先ず、コリアタウンの東側入口・百済門に偶々さしかかったと言うか、出くわした処から始めることとします。まあ、中間にも百済門があります。 (東入口の百済門・御幸橋から) (中間にある百済門) コリアタウンの西出口(入口でもあるが)の南側にあるのが御幸森天神宮。この神社は下記参考の記事にて紹介済みなので、パス。 <参考>万葉ウォーク下見・すみのえの霰松原 2011.10.23. 神社の西側の道を左(南)へ。弥栄神社という文字が目に入ったので立ち寄ってみる。祭神はスサノオノミコト。それに仁徳天皇も祭神としているのが難波らしい。 (弥栄神社・東鳥居) (同・拝殿) さしたる発見もなく、神社を後にし、JR環状線桃谷駅前に出る。 JR環状線に沿って南へと走っていると、摂津国分寺跡→400mという標識が目に入る。国分町という地名。右手に小さな公園が見えたので行ってみると、そこに石碑がありました。国分町公園という公園らしい。帰宅後、地図で位置を確認していて、久保神社と河堀稲生神社と国分寺公園を線で結ぶとほぼ正三角形になることに気付きました。(摂津国分寺跡碑)(国分寺公園) (摂津国分寺跡碑側面と副碑) この付近は七宮めぐりをしたので、地理感が出来ている。玉造筋を直進。右にカーブして上り坂となって南河堀交差点を西へ。ホテルバリタワー大阪天王寺の前で裏道に入って、JR天王寺駅をぐるり回って、向かいのアベノハルカスのビルの下からアベノ筋に入る。19日は大和川までアベノ筋をひたすら南へと走ったのであるが、28日は松虫交差点で右折、西へと向かいました。聖天山へ立ち寄るためである。 阪堺電軌上町線の踏切を渡ってスグに松虫塚があるが、これも素通り。過去記事に紹介済みだからである。段々と近隣の銀輪散歩もこのようにして、題材が減少して行くのでありますな(笑)。松虫塚については下記記事をご参照下さい。 <参考>大阪市南部銀輪散歩(2.四天王寺、松虫塚、安倍晴明神社) 2011.7.16. 更に西へと下ると道端に詩碑がありました。伊東静雄の詩である。中学か高校かの教科書で彼の詩に接したことがあるが、その詩がどのようなものであったかは記憶していないし、その後、彼の詩集などを読んでいないので、書棚には中央公論社版「日本の詩歌」で伊東静雄の詩が収録されている巻もあるにはあるのだが、「積ん読」になって居り、従って、彼のこともその詩のこともヤカモチは何も知らないのである。(伊東静雄詩碑「百千の」・松虫通り) 伊東静雄は、長崎県出身であるが、住吉中学(現・住吉高校)の教師をしていた時期もあったので、此処にその詩碑があるという訳である。 さて、いよいよ第一の目的地・聖天山に到着である。 <参考>大阪再発見・聖天山 (女坂) (聖天山奥之院) 4月23日の記事でも書いた通り、大阪5低山というのは、天保山、茶臼山、御勝山(岡山)、帝塚山とこの聖天山を言うらしい。他の4山は訪問済みで、当ブログにもその写真を紹介しているかと思う。しかし、この聖天山はブログの上でも、ブログ外でも訪ねるのは今回が初めてである。 <参考> 天保山:銀輪渡船巡り 2016.8.25. 茶臼山:七宮めぐり余録 2017.4.23. 御勝山:御勝山から舎利寺へ 2014.9.2. 帝塚山:帝塚山古墳の写真はブログに掲載 がないようなので、当記事末尾に その写真を掲載して置きました。 (奥之院の手前にある門) (聖天山正圓寺・鳥居)(聖天山正圓寺・山門) 聖天山正圓寺については、下掲の「縁起」の写真または上記<参考>の「大阪再発見・聖天山」をご参照下さい。 山門の写真を撮った際、シャッターを切った瞬間に上空から木の葉が落ちて来たようで、それが写り込んでいます。 お堂の縁側に何故か巨大なアンモナイトの化石が置いてありました。何とも奇妙なとり合わせであります。不可解(貝)などと駄洒落を言ってみたくなると言うもの。 (同・本堂) (アンモナイトの化石)(聖天山正圓寺縁起) 鳥居脇に兼好法師藁打石と伝えられる石があるとのことで、その碑が建っている。大聖歓喜天と刻された石碑の台座石がその石らしい。 この付近に兼好さんは庵を構えていたらしい。正圓寺境内庭園には、兼好法師隠棲庵址の碑もあったらしいが、小生が見落としたのか見かけませんでした。(境内の句碑と兼好法師藁打石の碑) 藁打石の碑と並んで句碑もありました(下掲左)。 兼好の午睡さますな蝉しぐれ、という句であったが、誰の句かは存じ上げぬ。その句碑と並んで徒然草の碑もありました。当ブログでは徒然草の文章を引き合いに出しては、兼好さんを茶化したりもして居りますので、日頃の無礼をお詫びして置きました(笑)。 (同上) (徒然草の碑) 聖天さんを後にし、松虫交差点の手前から熊野街道に入り、阪堺電軌上町線のチンチン電車が走る道に出て、これを帝塚山3丁目停留所まで行く。停留所の先で右折し、西へ。南海高野線の帝塚山駅前の踏切を越えた処にある帝塚山古墳に到着。これを写真に撮る。(帝塚山古墳) カメラを構えていると山頂と言うか墳丘と言うか、丘の上に人影が見える。いつも鉄柵と施錠された門扉が進入を阻んでいたのだが、最近は自由に入ることもできるようになったのかと、門の前まで行ってみた。施錠されていない。門扉を開けて中に入ってみた。丁度、その時、反対側の山かげから小学生たちの集団が現れて門扉の方へと下って来た。男性の教師も。こんにちは、と笑顔で挨拶するも、何やら妙な空気。男性教師曰く「此処は立ち入り禁止です。我々は特別の許可を得て入山しています。」 とんだ闖入者となってしまったことに苦笑しながら退出。MTBで来た道を取って返したという次第。 本日の記事はここまでとします。続きは明日以降の記事になります。 (つづく)