三輪山登拝・大神神社から多神社まで
以下は、24日の銀輪散歩の記事です。 昨年の4月に、銀輪散歩で大神神社に立ち寄った際に、三輪山に登ってみようと思い立って、その受付をしている狭井神社に出向いたものの、午後2時までという受付時間を少し過ぎていて、果たせなかったこと(下記<参考>「銀輪万葉・奈良銀輪散歩」参照)を思い出し、これを果たそうと朝早くに三輪へと向かったのでありました。勿論、トレンクル持参にて、駅から銀輪を走らせての銀輪散歩でもある。<参考>銀輪万葉・奈良銀輪散歩 2016.4.20. 午前9時半頃に狭井神社に到着。 受付を済ませ、登山(三輪山は大神神社のご神体ということで、登山とは言わず「登拝」と言う。)の諸注意を受けて、9時40分登拝開始。(三輪山登拝口) 下掲の「登拝者へのお願い」を読み、杖を借用して登拝口へ。(「神体山」登拝者へのお願い) 登拝受付口でお借りした「三輪山参拝証」(下掲)を首に掛けて登拝します。(三輪山参拝証) 上記3点の写真は下山後に撮影したものです。山に入ると撮影は禁止。よって山中での写真はありません。 受付の方の話では往復2,3時間はかかるとのことでしたが、下山したのが11時40分。きっかり2時間を要しました。 下山して、狭井神社からの急坂道を下った場所、久延彦神社参道の前にあった茶店で昼食とする。三輪素麺定食だったか何かそんな名前のものでした。(久延彦神社) 大国主が出雲の美保の岬に居た時に、ガガイモの実の船に乗って沖合から正体不明の神様がやって来るのが見えた。何と言う神様かと皆に尋ねるが、誰もその名を知らない。するとタニグク(ヒキガエル)が「クエビコならきっと知っている。」と言う。そこで、大国主がクエビコを召して問うと、「カムムスビノカミ(神産巣日神)の御子のスクナビコナノカミ」であると答えた。というエピソードが古事記に出ている。クエビコについては「此の神は、足は行かねども、ことごと天の下の事を知れる神なり。」とも書かれていて、何でも知っている物知りな神様という設定になっている。 また、古事記には「山田之曾富騰(ヤマダノソホド)」のことだとも書かれているが、「そほど」とは、一説では、「そほちひと」の略で「濡れそぼつ人」という意味とのこと。転じて「案山子」のことである。つまり、山田の案山子ということである。案山子の神は田の神、水の神であり、「田の所有権の標識・守護神」として昼夜そこに立ち尽くすものと念願され、神の憑代となるに伴い、ことごとく天下のことを知っている神と信じられるに至った、ということのよう。「山田の中の一本足の案山子」は歩けないが何でも知っているという訳である。 なお、クエビコは「崩(クエ)彦」で、案山子が雨風に打たれて形が崩れた姿からの命名である。高級魚のクエとご面相が似ていたという訳ではないのである。(同上説明板) 昼食後、12時20分、再びトレンクルで走り出す。 大神神社の参道を西へ。(大神神社)(大鳥居) 大鳥居の処で振り返ると、今しがた登った三輪山が見える。 広い通りに出て左折し南へ。一つ目の交差点で右折し、西へ。芝運動公園の南側の道路を行く。程なく大和川に架かる橋にさしかかる。(大和川) 大和川は、万葉集では泊瀬川とか三輪川とかという名で登場するが、三輪山の南麓、初瀬の谷付近を東西に流れているときは泊瀬川、三輪山を過ぎて北向きに蛇行して来るこの辺りは三輪川と呼ぶのが似合いかも知れない。 大和川を渡り、ひたすら西へ直進すると、大門橋の手前で寺川沿いの道となる。ここで右(北)に脇道を入ると十市の集落である。 十市御縣座神社に立ち寄る。(十市御縣座神社)(同上・拝殿)(同上・本殿)(同上・由緒) 境内に歌碑がありました。 歌の作者は十市遠忠。室町時代・戦国時代の武将らしいが、存じ上げぬ名前。この人物については下記<参考>をご参照下さい。<参考>十市遠忠・Wikipedia(十市遠忠歌碑)(同上・説明副碑) 近くに十市城之跡碑があることを帰宅後ネット検索で知りましたが、当日はその認識もなく見逃しました。次に近くを銀輪散歩する機会があれば探してみます。 再び、寺川沿いの道に戻り西へ。十市橋の先で寺川は南から流れて来る米川と合流して、北へと向きを変える。その合流点の北側にあるのが興仁橋。この橋で寺川を渡ると右手に大きな池(多池)を見て、近鉄橿原線を跨線橋で越える。 因みに、寺川沿いの対岸の道(左岸の道)を上流へと向かうと大伴坂上郎女の歌にも所縁のある「竹田の庄」を経て、桜井市駅の南側へと至るのであるが、この道は2012年4月に友人の偐山頭火氏と田原本から桜井へと走った際に通った道である。<参考>田原本から桜井・忍坂へ銀輪散歩(その2)2018.4.30.(跨線橋から二上山を遠望) 跨線橋を越えて、数百メートル西で道は飛鳥川にぶつかる。 飛鳥川沿いに北へ。3月18日の銀輪散歩で休憩をした多駐輪場(下記<参考>参照)とその隣地の奈良県営福祉パークの前の緑地で暫し休憩。<参考>飛鳥から結崎まで(ペリカンの家小旅行番外編)2018.3.21.(飛鳥川と畝傍山) 飛鳥川対岸の多駐輪場への橋の上から飛鳥川上流を見やると奥に畝傍山が見えて、なかなか良き眺め。 今日あたりは桜の開花が更に進み、満開を迎えて一層良き眺めとなっていることでしょうが、この日は未だ三分咲きから五分咲きの段階。(飛鳥川畔の桜) 橋の東詰めの道路脇には菜の花も彩りを添えていました。(菜の花も満開) 多神社も上述の偐山頭火氏との銀輪散歩の折に訪ねていますので、その折の記事(下掲)も併せご参照下さい。<参考>田原本から桜井・忍坂へ銀輪散歩(その1)2018.4.29.(多神社) 先に偐山頭火氏と来た時には、小社神社の写真を撮らなかったことを悔やんだのでありましたが、今回は小社神社にも立ち寄ることに。 小社神社への入口には前回は存在しなかった「古事記の碑」が建っていました。当時、これが建っていたら、偐山頭火氏もヤカモチも小社神社を見落とすことはなかった筈(笑)。(小社神社・古事記の碑) この古事記の碑の前の細道を右(南)へ入って行くと小社神社の社殿がある。(古事記献上千三百年記念太安萬侶碑) 小社神社の入口脇には「古事記献上千三百年記念太安萬侶卿」の碑。これも古事記の碑と同じ時期、前回我々が多神社に立ち寄った日よりも後日に建立されたのであろう。 小社神社は、太安萬侶を祀る神社。多神社の摂社である。(小社神社) この後、飛鳥川自転車道を下流へ、つまり北に向かって走ります。ここから先は、一部寄り道の部分を除き、今月18日(ブログ記事では3月21日の記事)の銀輪散歩と同じコースとなりますが、本日の記事はここまでとします。(つづく)<参考>今回の銀輪散歩のコース概略。