佐保川ウオーク
昨日(30日)は、中学時代のクラスメート男女8名によるミニクラス会・佐保川ウオークでありました。 参加者は、男が木麻呂、谷麻呂、喜麻呂君と小生の4名、女が嶌郎女、大郎女、堀郎女、塩郎女さんの4名、計8名である。但し、喜麻呂君と塩郎女さんはウオーク不参加で昼食会のみの参加。 ウオーク組は午前10時近鉄奈良線新大宮駅前集合。 小生は少し早めにと9時40分頃に到着の電車に乗ったが、既に木麻呂君と大郎女さんが来て居られました。嶌郎女さんが続いて来られ、谷麻呂君、堀郎女さんの順で到着。定刻の午前10時出発。(新大宮駅前) 今回のコースは2月24日に下見をし、それをブログ記事にしているので、当該記事も参考にご覧下さい。(尤も、下見の折は自転車であり、奈良駅から先に北山十八間戸に寄り、佐保川沿いを新大宮駅へと、本番とは逆コースを走っていますので、順序が逆になっていますが。)<参考>中学同窓との第2回ウオーク下見 2019.2.24. コースを地図で示せば下掲の通り。(コース地図 ――が往路、――が復路 昼食会の場所が南蛮亭) 駅前の道を北に進み、佐保川に出る。佐保川沿いの道を東へと歩く。(佐保川沿いの道) 奈良は2、3日前に開花宣言したばかりで、まだ三分咲きか五分咲き程度であるが、木によっては、そこそこ見頃のものもある。 桜まつり、が開催されているようで、佐保川小学校の前の佐保川河川敷ではこんな光景が。(桜まつり) 対岸の人の群れよりも多い群れがこちら側にも。その群れの中を進む。人の群れが途切れたところで、先頭を歩いていた小生が振り返ると、木麻呂君の姿があるだけ。他の4人が見当たらない。 小学生のブラスバンドの演奏が始まったので、これを道端から拝聴しようと人々にまじって立ち止まっている4名。谷麻呂君などはガードレールに凭れてじっくり落ち着いて聴こうというスタイル。 予定の行程では北山十八間戸到着11時半、昼食会の南蛮亭到着12時20分なので、予定外の場所で時間を潰されてしまうと、ちとまずいのである(笑)。呼びに戻って出発を促す。 JR奈良線の踏切を渡ると、大伴坂上郎女と大伴家持の歌碑がある。 (坂上郎女歌碑) (大伴家持歌碑) 歌碑は2月24日記事に掲載のものの再掲載です。 ここで、少し歌の説明などをする。 人道橋を渡って左岸から右岸に移動。 人道橋から下流、上流を眺めた写真を撮る。同じアングルで2月24日にも撮影しているので、これと対比するためである。 わが目論みとしては、満開近い状態の写真を掲載、こんなにも咲きました、という記事仕立てにするべしであったのだが、花の盛りはままならぬもの。こんな程度でアテがはずれました(笑)。(下流側の眺め)(同上、2月24日の状態)(上流側の眺め)(同上、2月24日の状態) 山桜など満開になっているのものもありましたが・・。(これなどは満開です。) 右岸側にも坂上郎女と大伴家持の歌碑がある。 こちらの坂上郎女歌碑は、犬養孝先生の揮毫による歌碑。所謂「犬養万葉歌碑」である。 (坂上郎女歌碑) (大伴家持歌碑) そして、大仏鉄道記念公園の枝垂れ桜です。 この桜は、ヤカモチの狙い通りの対比となりました。(大仏鉄道記念公園)(同上、2月24日の状態) ここでも、長屋王の万葉歌が併記された石碑があるので、その説明などをしましたが、丁度、その石碑の前のベンチに若いカップルが座って仲良くおやつを食べていました。 そのため、我々が彼らを取り囲むような無粋な形になってしまいました。それで、その場を取り繕うため、カップルの男性に対して長屋王の歌や長屋王のことを説明するという感じの話しぶりにし、不自然でない状況を作出することにしました。すると、その男性もなかなか気の利く奴で、「そうですか。」とか「ここに長屋王の歌が刻まれているのですか。」とか反応してくれて、恰も彼ら二人を含めたグループが一時的に成立ということになって、互いに気まずいことにならなかったのは幸いでした。 まあ、それにしても無粋なオジサン、オバサンたちであったことには違いありません(笑)。お二人にお邪魔したことを詫びて、先へと進む。 更に、東へ。奈良女子大の裏手で長慶橋という名の佐保川に架かる小さな橋を渡って、北へ方向転換。(長慶橋) 長慶、と言うと、思い浮かぶのは南朝の天皇である長慶天皇と、現役の頃の部下の女子社員が一字違いの似たような姓であったこと位。同行の大郎女さんが「主人から耳にした話」としてこの橋の由来のことを「~であったような気がする。」と仰っていましたが、帰宅されて、歴史好きのご主人に確認されたのか、或はご自身でお調べになったのか、彼女からメールが来た。それによると、「先にお話したのは私の思い違い、この橋は、明治時代の市会議員で、吉村長慶という人物が寄付したもの」だとのことでありました。 一条通りに出て右折、東へ。聖武天皇陵・光明皇后陵に立ち寄る。(聖武天皇・光明皇后陵 2月24日記事からの転載) 聖武天皇と光明皇后の下記万葉歌をいくつか取り上げる。妹に恋ひ 吾(あが)の松原 見渡せば 潮干の潟に 鶴(たづ)鳴き渡る(聖武天皇 巻6-1030)(あの子を恋しく思って、逢える日はいつかと待つ―その「吾(あ)が待つ」に因む吾(あが)のの松原を見渡すと、潮の退いた干潟を鶴が鳴き渡ってゆく。)秋の田の 穂田を雁がね 暗けくに 夜のほどろにも 鳴き渡るかも(聖武天皇 巻8-1539)(穂の出た秋の田を、雁がまだ夜の明けきらない暗いなかにも鳴き渡ってゆくなあ。)橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝(え)に霜降れど いや常葉(とこは)の木(聖武天皇 巻6-1009)(橘は実までも、花までも、その葉までも、枝に霜が降ることがあっても、枯れるどころかますます栄える常緑の木である。)我が背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しからまし(光明皇后 巻8-1658)(あなたと二人で見たとしたら、どれほどこの降る雪が嬉しく思えたことでしょうか。) 転害門経由で北山十八間戸へ。(転害門 2月24日記事からの転載) 約束の時間より15分遅れの11時45分に、三角屋さんに到着。 三角屋さんはお好み焼き屋のお店。県から委嘱を受けて、北山十八間戸の鍵の管理などをされている。 女将さん(小生は「吉備郎女」さんと勝手名で呼ばせていただいている。)にお声がけして、北山十八間戸の開錠と案内をお願いする。<参考>三角屋さんの写真はコチラ 北山十八間戸は一昨年の8月に一人で訪問している。その折の記事をご参照いただくこととし、詳細は省略です。<参考>叡尊墓と北山十八間戸へ 2017.8.29. 北山十八間戸の写真はコチラ 前回と違って、同行者が5名も居たからか、吉備郎女さんは、施設について詳しくご説明下さいました。(忍性上人画像) 忍性は鎌倉の極楽寺で没していて、そこに墓があるが、この近くでは、生駒の竹林寺にも分骨墓がある。<参考>竹林寺・行基墓&忍性墓 2017.7.29. 此処、北山十八間戸では忍性の命日、7月何日とか仰っていたと記憶するが、その日に般若寺の僧侶などによる供養がこの画像の前で営まれるらしい。(同上の部屋から戸外を見る) 前庭に立って、南を見ると大仏殿が見える。(左手に若草山、正面に大仏殿が見える) 吉備郎女さんにお礼申し上げて、おいとまする。 昼食場所の南蛮亭へ向かおうとしたが、旧奈良少年刑務所建物を見て置きたいという人もいたので、少し足を延ばして坂道を上る。<参考>奈良少年刑務所、奈良豆比古神社、夕日地蔵 2017.8.30. 昼食場所の南蛮亭は法蓮中町交差点のバス停の西側にある。今いる場所からは、来た道を引き返し、聖武天皇陵から更に西へ一条通りを進むことになる。徒歩23~4分位だろう。刑務所前の坂道を下っている時に、塩郎女さんから電話がある。今、南蛮亭に着いたがどの辺りに居るのか、とのこと。刑務所の前なので、12時30分までには着けると思うと返事、南蛮亭へと急ぐ。 はい、南蛮亭に到着である。 この店は、塩郎女さんに予約していただいたもの。(南蛮亭) 塩郎女さん、喜麻呂君両名に迎えられ、全8名勢揃いとなり、昼食会となりました。 まあ、あとは毎度お決まりの、とりとめもない雑談ですが、気心の知れた仲なので、自然体。ゆっくりと食事と会話を楽しみました。 予定では、2時か2時半頃の解散でしたが、店を出たのは午後3時5分でした。奈良駅まで歩き、生駒駅で皆と別れ、生駒駅近くの病院に入院している叔母(父の妹)を見舞う。 26日に脊柱管狭窄症の手術をしたばかり。幸い、手術はうまくいったよう。昨日から本格的なリハビリを開始していて、表情も明るくなっているので安心である。そんなことで、今月10日以降、毎日のように病院通いをしているヤカモチである。<参考>中学同期関係の関連記事はコチラ