左目の覆いを取って戴きました。手術直後のそれは遮光不透明にて外界が見えないので片目生活となり、ちょっと鬱陶しいのであるが、翌日午前中にはもう、それを外して透明プラスティックのものに変えてくれる。
「手術後カッペをしますので絶対にはずさないでください。」と手渡された注意書きにはありましたが、この覆いがカッペである。
しかし、カッペがKappeというドイツ語であることに気が付くのに少し時間が掛かる。キャップという英語なら日本語にもなっているから、そういうことはないだろう。どうしてキャップという言葉を使わないのでしょう。
まあ、カードをカルテと言うのが医学の世界だから、そちら世界ではそれでいいとしても、カッペはカルテほどには一般化していないのだから、患者向けにはキャップを使う方が分かりやすかっぺ、と思いますがね、田舎っぺの田舎家持としては。
さて、そのカッぺであるが、これを取り外す瞬間が何とも素晴らしい瞬間なのである。始めに光ありき、または、世界は光と共にありき、などと言いたくなるような瞬間なのである。溢れる光と鮮やかな世界がそこに現出する。それは殆ど過剰なまでに鮮やかな世界なのである。
その鮮明さはまた視神経に過剰な刺戟をもたらしているのではないかとも思ったりもしている。その結果、どうも脳の方でこれを補正するようなのである。
と言うのは、6日に手術した右目のカッぺを翌日7日に外した時も同様な鮮やかさを感じたのであるが、その右目と今日の左目を比べると明らかに左目の方が色が鮮やかと言うかコントラストが鮮明なのである。これは右目が過剰な刺戟を回避するための補正を行った結果であり、やがて左目もそのように補正されて、現在の右目程度の鮮明度に落ち着くのだろうと推測される。
こういうのは馴化(順化)というのですかね。環境に適応するために生物が自らを変えることを馴化と言うが、過剰な光刺戟に対して感じ方の方を変化させるというのも、この能力と同じ性質のものであるように思われる。
生まれたての目は、今、必死に馴化しているのですな。このことによって、最初のあの感動的なまでの鮮やかさというのは、徐々に薄れて、ほどほどなものになる・・という次第。美女は3日で飽きる、ブスは3日で慣れる、というような言葉は品性に欠けるものにてヤカモチの好まぬ処なれど、この馴化というものの一面を言い得ている言葉ではある。
何であれ、当たり前になって行くというこの馴化というものは、個人にとっても人類全体にとっても、或る面で救いとなる一方、不幸や不満や諸々の悪しきことを招来する下地ともなるものなのではある。
など、思いつつ、わが病室とも明日12日でお別れである。
お世話になった先生や看護婦さんや配膳や掃除などお世話下さった皆さんに感謝しつつ、めでたく退院と致しまする。
では、病室君、あと一晩よろしくお願い申し上げまする(笑)
(わが病室:マイン・クランケン・ツィマーと呼ばねばならんのか?)