カテゴリ:囲碁
今日は囲碁例会の日。
いつもの通り、愛車CB(クロスバイク)で、自宅から大阪城公園経由・梅田スカイビルまで銀輪散歩を兼ねての「ひとっ走り」でありました。 (大阪城公園) 大阪城公園のお気に入りの場所を通り抜け、11時45分頃梅田スカイビル到着。いつものカフェレストランで昼食を済ませ、ガーデンファイブ棟の5階にある部屋に入る。まだ、どなたも見えて居られず、ヤカモチが一番乗り。碁盤の設営などを済ませ、待つこと20分余。村〇氏が来られたので、早速に同氏とお手合わせ。 中盤で激しい争いとなるが、大石を仕留め、ヤカモチの中押し勝ち。 対局中に青〇氏が来られたので、メンバーチェンジし、青〇氏と対局。しばらくして平〇氏がご来場。隣で村〇氏と平〇氏の対局が始まる。 ヤカモチ・青〇戦は、左辺に大きな地ができて、ヤカモチの中押し勝ちとなりましたが、隣の村〇・平〇戦がまだ中盤の戦いという進行状況だったので、続けてもう1局打つこととする。今度は数目差でヤカモチの負け。 最後は、平〇氏と打ち、僅差でヤカモチの勝ち。ということで、今日は3勝1敗という成績。これで、今年の通算成績は、21勝14敗。 帰途は、なにわ筋→靭公園経由のコースを走る。 そこで、目にしたのがこの石碑。 大塩平八郎終焉の地碑、とある。 (大塩平八郎終焉の地碑) 1997年9月建碑とあるから、25年前に建てられた碑である。そんなに前から靭公園にこれがあったのなら、気づかぬ筈がないので変だと思って副碑の方を見ると、この碑は、元々、靭公園の南側にある天理教飾大分教会の敷地内にあったもので、同分教会の建て替え工事に伴って移設する必要が生じたことから、昨年3月にここに移設されたものであることが判明。 過去記事をチェックすると8月11日の囲碁例会の帰途にも、今日と同じコースを走り、靭公園を通り抜け、この碑のすぐ近くを走っているので、視界には入っていた筈。気がつかなかったのか、目にはしたが、何だろうという関心を寄せなかったのか、その辺は不明である。 (碑文全文) 大塩平八郎中斎(一七九三~一八三七)は、江戸時代後期大坂奉行所の与力で、陽明学者としても知られ、世を治める者の政治姿勢を問い、民衆の師父と慕われた。 天保八年(一八三七)二月十九日飢饉にあえぐ無告の民を救い、政治腐敗の根源を断とうとして、門人の武士、農民等を率いて決起した。 乱後大塩平八郎・格之助父子は、この地に隣接した靭油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏したが、同年三月二十七日幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。民衆に呼びかけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている。決起百六十年に当たり、全国の篤志を仰いでここに建碑する。 一九九七年九月 大塩事件研究会 (同上・副碑) ※大塩平八郎の乱・Wikipedia ※大塩平八郎の檄文 以上、囲碁例会と大塩平八郎の乱の記事でした。 <参考>囲碁関連の過去記事は下記参照。 囲碁関係(その1) 2008年~2019年6月 囲碁関係(その2) 2019年7月~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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