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本日開催のDAISYとディスレクシアのイベントは無事終了しました。
DAISYの体験コーナーの担当をしていましたが、いろいろ話をしたり聞いたりが楽しくて、一日のイベントだったのですが時間の経つのが早かったです。 私はアガり症で、書くのは得意だけど話すのはイマイチ…と思っていたのですが、どうやら慣れの問題のようですね。 話すことは、やり続ければ案外好きなことの方に入るかもしれないと今日はっきりと気付きました。 本当に苦手なことは、例えば工作とか空間認知とかクルマの運転で、これは得意な人に任せて、自分は頑張ろうとすら思わないタイプのこと。 今でも遠近感のきちんとした絵は書けないし、数学の図形問題、「この立体をこの点で結ぶと切り口は何角形になるか」のような問題は、相変わらずできないでしょう。 が、人前で話すとか、何かをことばで説明したり紹介したりするのは、できるかも、と思ったんですね。 もっとうまくできるようになりたいなと思いました。 前から展示で説明しているときやDAISYのことを友人に紹介しているときに、「楽しそうね」とか「いい仕事をしているのね」というポジティブなフィードバックをいただくことがあり、そうか自分は楽しそうに見えるのかとそれでうれしくなったりしていました。 今日は説明しているのが本当に楽しかったです。 私は会話の瞬発力、反射神経は、イマイチと思っていたのですが、これは、やれば磨けるのだと、実感できたのです。 前もって回答を準備したり、これをやろうと決めていたわけじゃないけれど、今日とっさに反応できてうれしかったことがふたつあって、確信できました。 人も結局「物体」だから慣性の法則が働いていて、止まっているときは止まったままだし、進みはじめると等速直線運動が心地よくなるわけです。 「はじめる」と「やめる」は、かなりエネルギーを使います。 決意してはじめてしまえばあとは等速で心地よく走るだけ。 等速で走る心地よさを、今日話しながら私は確かに感じていました。 そして、同じことを話すにしても、もっと一緒にやろうと思う味方を増やしていく伝え方はまだまだあるので、それを磨きたいと思いました。 一緒に話している人が元気になる話し方聞き方を磨きたいです。 私が案外話し好きであると、幼い頃から本人よりも前に気づいていた人がいました。 それは小学校時代の同級生でもあった亡くなった彼なのです。 当時友達とあまり話さず本ばかり読んでいた私は、他の子からは、頭がいいねといわれるかガリ勉といわれるかのどちらかでした。 でも彼は当時、「本当は寂しがりやで話しかければ機関銃のように話すんじゃないか」と思っていたのだとか。 「野球少年」と「文学少女」は、ほとんど言葉を交わすことがないまま、少年は転校し、二人の再会にはさらに二十年の月日を要するわけですが…。 子供の彼が見ていたのは私の本質であり、短いながらも完璧な言い尽くしです。 私が本を読むのも文章を書くのも、案外好きだった話したり聞いたりも、結局、コミュニケーションの渇望から来てるんですね。 要は寂しいのかもしれません。 でも、寂しさをどうにかするためにしてきたことは突き詰めて重ねていけば、知識にも教養にもスキルにも姿を変えます。 なんか、やっぱり、そのまんまで大人になったみたいですね。 今日は私の両親、彼の両親、友人と、来た時間帯は違いましたが、直接の仕事関係から少し範囲を広げて来ていただいたという意味でも、大切な日で、いろいろな意味で実りの多い一日でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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