カメラで何がしたいの?
クラッセW、買ったはいいが最近使っていない。山に行っていないからだ。山でないと写真は撮れないかというとそういうわけではない。リバーサルフィルムを使うということは、それなりに気合いが必要なのだ。街中でぱしぱしお手軽に撮るという感じにはならない。本当はお手軽に撮るべきなのだ。そのためのコンパクトカメラだ。いつでもカバンに入れておき、気になる被写体があったらさっと出してパシパシ。これが理想。現実は机上に置きっぱなしの状態になっている。なんとももったいない。使わなければカメラでない。そもそも山行に使っていた一眼レフの代替品として考えていたから、街で使わないのだ。そうではなくて、クラッセを知るためにももっと触れているべきなのだ(人ごとのように言うが)。いざという時、操作に手間取りシャッターチャンスを逃したらどうするのか。そうならないように取説を熟読し、平地で操作に慣れておく必要があるだろう。それに山に行かないと山の写真が撮れないという考えもおかしい。山に入ったら、山は見えなくなるのだ。ある山を撮りたかったら、別の所から眺める必要がある。G会の50周年記念誌を作成する際に、毛勝三山の写真の提出を求められた。扉絵に載せるということで、大変名誉なことである。しかし、やまやろうのフィルムストックの中に、記念誌に載せられるような三山の写真はなかったのである。理由は単純、撮っていないから。絶対的に数量が不足していたのだ。せっかくのチャンスを逃し、忸怩たる思いであった。どういう状況で作品が必要になるか分からないから、どんなジャンルでも撮影しておくべきなのだ。撮りためていくうちに、自分が本当に撮りたいものが見えてくるのだろう。シャッターボタンを押さないことには写真について語ることができない。現時点でやまやろうが撮りたいものは、同行者の写真である。雪山でラッセルにあえぐ姿や登攀時の緊張した面持ちなど、現場でしか撮ることのできない空気感を切り取りたいと思っている。それには、撮影に値する山行をする必要がある。G会の現役代表である自分が年間山行計画を立案するので、撮影に見合う山域を選ぶという手段も考えられる。まあG会が選ぶような山域は、マニアックな所が多いので撮るだけで価値があるようなものだ。会社帰りに魚津サンプラザに寄り、カメラ雑誌を立ち読み。散歩撮りの特集など読むと、自分もやってみたくなる。道具はすでにある(クラッセ)。一眼レフでは堅苦しい。ここはコンパクトでないとならないようだ。ただ雑誌にあるような力の抜けた、いい感じの街中の写真を撮れるだろうか。やまやろうはこう考えてしまう。「せっかく値段の張るリバーサルを装填したのだから、まともな作品を撮りたい。失敗するのはもったいない。街中で良好な被写体に巡り会えるのだろうか」などなど。うまいものを撮ろうとして、ついつい肩肘張ってしまうのだ。そういう状態では面白いものは撮れないだろう。ここは自然にわき出る感情に任せて、「あ、いいな」パチリ、と済ませたい。そうでないと街中で頭を抱えることになる。偶然性を楽しむべきであろう。山中では被写体が決まっている。山並みであったり、同行者であったり。しかし、街中では何が被写体になるか分からない(決めていないから)。どんな作品が撮れるかも検討がつかない。それを面白がるか怖がるか。今は後者なのだが、ここらでカメラ道の一歩を踏みだそう。何でもいいから撮ってみよう。撮ることに楽しみを見いだそう。撮る行為そのものが楽しいのは、フィルムカメラの特権だ。フィルムは金がかかる分、一枚に真剣になる。真面目に被写体に向き合う。一枚を撮るのに、絞りや構図を考えるのが楽しい。デジカメでも真剣に撮影することは可能であるが、好きなだけ(記録容量めいっぱい)撮れて、失敗しても消すことができるという利点があるので、ついつい何も考えずにパチパチ撮ってしまうことが多い。数打ちゃ当たる戦法だ。これでは進歩はない。やまやろうが銀塩カメラにこだわる理由。それは撮影に至るまでの行為そのものが好きということもあるし、現像を待つ時間も好きだから。スリーブにした作品を見返すことも好き。作品そのものよりも、撮影前後の自分の振る舞いが気に入っているのかもしれない。明日は家族で金沢方面へおでかけ。デジカメは当然持っていくとして、クラッセも同行することになりそうな感じだ(撮影意欲満々)。