短視眼的生活
今週の発表資料作りに追われているが、明日の部長確認のための資料をまずは作る必要がある。間違いなく訂正を食らうわけで、だったら作らなくてもいいのではと思いながら。多分ああだこうだ言われるだろうなと思いながら、あまり意味のない(気持ちのこもらない)資料を遅くまで作っていた。どうせ言われるのなら、白紙で出して早く帰ってしまいたい。責任感とかやる気とかそういうこととはまた違うのだ。何をしても自分で考えてどんなに素晴らしいものを作ったとしても、訂正を食らうのであれば、頑張る意味はないではないか。今夜は途中からそんな気分でパワーポイントに向かっていた。週末の発表のため明日の報告のためそのための上司相談のためとどんどん短視眼的な作成に陥る。本当にやることは資料作りではなく仕事を先に進めることなのである。しかし今はそれができない。そして仕事全体が遅れていく。そして後になったらそれを責められる。自分で明確に自覚しているのであるが、負のスパイラルに陥っているのが分かる。もう何をしても認められないところまで来ている。何を言っても何をやっても否定されるところまで来ている。見限られているのだよ。だから言われたことはやっているがどうせだめだろうという思いは溜まっている。それではいい仕事はできないと分かっているが身が入る訳がない。自分が切れるのが先か上司に引導を渡されるのが先か分からないが、この閉塞感は生きている意味を失わせるのに十分だ。ブログでこういう暗いことを書いても仕方がないのだが、やまやろうが唯一、生きていると思えるのがこのブログなのである(心の叫び)。ああでも、共感は不要。心の中はいつでも独り。この心は誰かと通じ合うことはない。