カテゴリ:史跡巡り
7月11日(月)晴。京阪ふらり旅も最終3日目。
予定ではだんなさんの出勤時刻(7時過ぎ)に合わせて家を出て京都へ上り、日がな一日心ゆくまで京の歴史を堪能するはずであった。 …が、この日も朝から暑かった おまけに体の重いこと…。 だんなさんの出勤後も暫くは家でぼ~っとし、9時過ぎにようようと重い腰を上げて神崎川駅から阪急電鉄京都線で京へ向かった。 電車に揺られているうちにいつの間にやら眠ってしまい、終点の京都河原町駅で目覚めて慌てて下車。 駅を出てとりあえずよろよろ歩いていると、いかにも京都らしい建物(南座)が目に入ってきた。そして適当にひょいと道を曲がってみると、そこは偶然にも先斗町であった。おおッ、本当に憧れの京都にいるのね 実感がひしひしと湧いてくる。 先斗町を抜けると、更に驚いたことに今回の旅の目的地のひとつであった三条大橋に勝手に到着。まさかこんなに呆気なく目的地に辿り着けるとは…。京都の街って意外と狭い!? 三条大橋といえば、新選組好きにはお馴染みの「三条大橋制札事件」が起こった場所だ。 慶応2年(1866年)、三条大橋の制札が何者かに2度も引き抜かれてしまったため、3度目に建てた際、町奉行所は会津候(松平容保)へ申入れて新選組に警備を依頼。十番隊組長・原田左之助ら30余名の隊士は3ヶ所に分かれて犯人の出現を待った。2日後の深夜、土佐藩士8名が制札を引き抜き河原に投げ捨てたところを待ち構えていた隊士達が一斉に襲い掛かり、首領である藤崎吉五郎ら2名を斬伏せ、1名を捕縛したという。 30余人で3人しか捕まえられなかったってどうなん!? と言えなくも無いが、この一件での新選組の働きを賞し、会津候は左之助らに褒美を賜ったのであった。 そしてまた、2年後の慶応4年(1868年)4月に板橋で斬首された局長・近藤勇の首が晒されたのは三条大橋の畔(三条河原)であり、新選組とは全く関係ないが文禄4年(1595年)、豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられて切腹した豊臣秀次の首が晒されたのも三条河原だ。 朝の先斗町 三条大橋の下で鴨川のせせらぎを聞く ♪ 夢を語った~ 河原町ぃ~ 水面見つめた~ 鴨川のほとり~ 京都で生まれ育ったチュートリアルのお二人が歌い、作詞も手掛けた「Boy meets Boy」という男同士の友情ソングの中には、京都の地名が3つ出てくる。河原町、鴨川、そして ♪ チャリをとばした~ 北山通りぃ~ この北山通をぜひとも一度通ってみたく、韓流ババァの「冬ソナ」ロケ地巡りさながらのミーハーっぷりでお恥ずかしくも、京都在住の某ブロ友さんに連れて行っていただいた。 嗚呼、彼等は子供の頃から慣れ親しんだこの風景を想起してこの詩を書き、歌ったのね(^^) 「Boy meets Boy」巡礼の後は再び新選組等に関する史跡に気を向け、目を皿のようにして車窓から京都の街を眺める。 ・三条駅から程近い居酒屋の脇にひっそりと建つ「池田屋騒動之址」の碑 ・その池田屋襲撃の際に隊士達が集合したという八坂神社のおもちゃのような西楼門 ・新選組を離脱して御陵衛士を結成した伊東甲子太郎が暗殺され、彼の遺体を引取に来た藤堂平助ら3名も待ち伏せしていた新選組隊士に討たれた油小路 ・15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った二条城 などなど もう街中の到る所に史跡がゴロゴロ、まさに“犬も歩けば史跡に行き着く”だ。 長くなったのでいったんここで終了。次回、後編へと続く。まぁ誰も興味はないだろうけど… 本日の話題曲 ・チュートリアルの“Boy meets Boy”→こちら 「TKプロジェクト ガチコラ」(06年)より お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.07.14 19:49:56
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