Pastime Paradise

ファルコが帰った後、私は出入口ドアの向こう側に広がる見慣れた景色を暫しぼんやりと眺めていた。店の前の通りを行き交う人々の中には有名なロックスターの顔もちらほら混じっており、この店で働き始めてほぼ丸1年になるが、毎日眺めていても全く飽きない。

　昨秋、2年間の公共事業労働を終えた私は、今後の就労について世話役であるリッキーに相談した。どういう仕事がしたい？と尋ねられ、咄嗟に「本屋さんで働きたい」と口にした。読書が好きで、学生時代のアルバイト先も古本屋だったからである。本屋だね、と念を押してきたリッキーに私は頷いて答えた。そしてリッキーが世話してくれたのが、彼の仕事先である情報管理センターと同じ通り沿いにあるこの小さな書店、「Interzone」だった。
　店主がイアン・カーティスだと最初に聞かされた時は、正直なところ少し躊躇した。何故なら私はこの世界に来る前年に、イアンの半生を描いた映画「CONTROL」を観たからだ。
　4年前の春頃だったか法事で地元に帰った際、時間が空いたので城下筋をぷらぷらと散策中に、小ぢんまりとしたビルで映画を上映していることに気付いて中に入ってみた。そこで上映していたのが、オランダ人カメラマンにして数々のミュージック・ビデオ監督も手掛けているアントン・コービン（Anton Corbijn）の初映画監督作品である「CONTROL」であった。それはイアンの苦悩と絶望の日々がモノクロで描かれたものだった。
「大丈夫だよ、キオ。映画の中のイアンがどういう風に描かれていたのかは知らないけど、今のイアンは普通に穏やかな好青年だよ」
　リッキーの言ったとおり、実際のイアンはスクリーンで観たイアンとはまるで違っていたが、映画で彼を演じたサム・ライリー（Sam Riley）に雰囲気だけは結構よく似ていた。いや、似せていたのはサムの方なのだけれど。
　この世界にはイアンを苦しめた病気は存在しない。彼を絶望の淵に追いやった三角関係も彼の死で終わりを告げた。
「人間の多くは自らの生きている意味を探そうとし、また、死を怖れて神を信仰したりもします。しかしそのようなことをしても無駄なのです。何故なら生に意味などないのですから。死も同様です。死によって変わるのは環境と肉体ぐらいなもので、他には何一つ変わりません。死を怖れたり悲しんだりする理由もまた全く無いのです」
　私がこの世界に来て悲嘆していた時、生にも死にも意味はない、変わりはないのだと悪魔のルーファスは言った。確かに昔も今も私の内面は何も変わっていない。ならばイアンはこの世界に来た時にはまだ絶望感を引き摺ったままだったはずである。それが何程の辛苦であったか。恐らくは計り知れない苦悩を乗り越えて、今の穏やかなイアンがいるのだろう。1年前の躊躇した自分を叱ってやりたいくらい、今の私はイアン店長の元で働くことに喜びを感じている。
　店長のお役に立てるよう、しっかり働かなきゃ…。私は視線を外の景色から手元に戻すと、少量の薄めた洗剤液を吹き付けた布で、仕入れた古本の表紙を拭く作業に取り掛かった。
　この店では新刊の他に古本も取扱っており、その古本というのは地上で売られている本である。どのような流通経路を辿っているのかは知らないが、この世界には意外と地上の物が多い。本に限らず音楽や映画等も、何故か地上のCDやDVDがこの世界にもあって、私達は生前と同じように楽しむことが出来るのだ。貨幣が無いこの町の店は、一体どうやって商品を地上から仕入れているのだろう？気にはなるけど、そのあたりは何となく触れてはいけないような気がして、リッキーにもイアンにも今まで尋ねたことがない。尤も尋ねてみたところで、おそらくは言葉を濁されるだけだろうが。

　秋の気配の深まりとともに日没時間が早くなるのも地上と全く同じで、19時には既に闇と照明の世界だ。
　この季節になるとほぼ毎日、リッキーが帰宅がてら私を迎えにふらりとここに立ち寄る。酒やドラッグに溺れた人達が多いこの町で、女の子が暗闇の中を一人で歩くのは危険なことだから、と本気で心配してくれるリッキーは、世話役というよりもまるで父親のようだ。
　カララン…。いつものように出入口のドアベルが軽やかな音色を立てる。
「キオ、仕事は終わったかい？」