カテゴリ:御朱印巡り
中国観音霊場を幾つか回った翌日、今度は吉備路へ向かった。古代には筑紫、出雲、大和などと並ぶ有力な勢力の一つだったという吉備国には、全国4位の規模ながら立入自由の造山古墳や、田園風景に調和した備中国分寺の五重塔など往時の隆盛をしのばせる史跡が今なお多く残っている。
まず最初に参拝したのは岡山市北区にある、高さ27Mというベンガラ色のデカい大鳥居が聳え立つ最上稲荷。正式名称は最上稲荷山妙教寺というそうで、明治の神仏分離令の際、特別に神仏習合の祭祀形態が許された稲荷寺だ。脇の山道を10分ほど登ると羽柴(豊臣)秀吉が備中高松城攻略の軍議を行ったという古跡・一の丸があるのだが、今回はその途上に建つ、備中高松城の守護神を祀っている妙見堂で引き返して次の目的地へ。まぁ今まで何度も来たことがあるし、この先いつでも来れるしね。 続いては総社市にある、画僧雪舟が少年時代に修行した禅寺・宝福寺。柱に縛られた雪舟が足の指を使って涙で鼠の絵を描いたというエピソードで知られるこのお寺、一時は塔頭・学院55、末寺300寺を数えるほどの巨刹となり隆盛を誇ったそうだが、今でもなかなか立派なお寺ですがな。禅寺特有の凛とした佇まいが非常に好ましい。ここ最近になって御朱印巡りを始めるまで、そこらの山々の存在の意味なんて考えもしなかったものだが、山の中にはこういう名刹が昔も今も変わることなくひっそりと息衝いているんだなぁ…と一人感慨に浸る私の回りでは、総社市主催の吉備再発見写生大会に参加している子供達がのろのろと絵筆を走らせていた。 さぁ、次に目指すは般若寺だ!御朱印がいただけるお寺だということは前夜ネットで確認済だし、ちゃんと地図も印刷して持参している。地図を見ながら車を走らせるも、何故かどんどん田んぼ道へ。迷いながらやっと到着したかと思いきや、看板も駐車場もない小さなお寺であった。ん!? 本当にここ!? 恐る恐る敷地に入り、家の方に声を掛けてみたが、御朱印なんてないとのこと。う、うん、まぁそうでしょうね。せっかくなので記念に写真を1枚だけ撮ってすごすごと退散。帰宅後よくよく確認してみたら、般若寺ではなくて般若院、それも宝福寺のすぐ近くにあったらしい。くーッ、なんてこったい!! (゚д゚lll) はぁ、また今度行ってみよう…。 最上稲荷・妙見堂 宝福寺(庫裏) 宝福寺(方丈) ついでに般若寺 この日最後の目的地へ向かう途中、道路沿いに何やら立派そうな神社の看板が目に入ったので寄ってみることに。そこは備中国總鎮守・總社宮。備中国内大小324社の神々を国司が奉斎した備中国の總社とのこと。へぇ、こんな素晴らしい神社が街中にあったんだ。後楽園造園の際に参考とされたという三島式庭園と回廊が見事に溶け込んで美しい風景であった。お宮の方も御朱印を書きながら気さくに話し掛けてくださり、思わぬ喜びに触れることが出来た。 そして今回の御朱印巡りのトリを飾るのは、奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国に建てられた備中国分寺である。寺伝によると、廃寺となっていた国分寺を備中高松城主・清水宗治(高松城水攻めの際、首を差し出す代わりに籠城者の命を助けるようにと切腹した武将)が再興したが衰微し、江戸時代中期に再建されたとされ、国分寺の五重塔は吉備路のシンボルとなっている。 駐車場に車を止め、田んぼの畦道を抜けたところに国分寺がある。ここでも写生大会の子供達があちこちでスケッチブックを広げていた。あ、そういえば中学生の頃、たしか遠足でこのお寺や備中国分寺跡・備中国分尼寺跡なんかを回ったような淡い記憶が…。あまり印象に残るお寺ではないのよね(^^; 總社宮(回廊と庭園) 備中国分寺 御朱印 宝福寺 最上稲荷(妙教寺) 總社宮 備中国分寺 とうとう御朱印ブログを開設してしまいました~ 『御朱印巡り』まだ仮タイトルです。 1枚ずつをここより若干丁寧に説明していく、いわば自分の備忘録といったところです。 http://yanpuchi77.exblog.jp/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.06.28 02:12:11
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