カテゴリ:テレビ・ラジオ番組
更新をサボり続けること早2ヶ月、昨日53歳の誕生日を迎えた。この駄BLOGをリスタートしたのが07年(平成19年)10月、38歳の頃なので、もう15年間も無意味なことをだらだらと綴っている。
1969年(昭和44年)8月に生を受け、80年代に丸々10代を過ごした私の青春の思い出は洋楽と共にあるが、多忙な20代を送った90年代で心に残っている娯楽の最たるものの一つが、92年7月から日本テレビ系列で日曜の夜に放送されていた「進め!電波少年」であったように思う。 92年秋に結婚し、93年4月には長男を、そして翌94年7月には次男を出産。でもって95年(1月に阪神淡路大震災があった年)に自宅購入…と、人生の大イベント目白押しだった90年代前半の娯楽に関する記憶は多忙故にかぽっかり抜け落ちているのだが、その電波少年で96年4月からスタートした「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」は、猿岩石が唐突に香港の時代廣場からヒッチハイクを始めることになったところから妙に記憶に焼きついている。ヒッチハイクの旅がとにかく好きで、毎週日曜が楽しみで仕方がなかった。 同年10月から引き続きスタートした、ドロンズによる「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」もこれまた面白く、夢中でみていた。 そして番組が「進ぬ!電波少年」と名前を変え、司会の松村邦洋さんが降板して松本明子さんだけになった98年1月からスタートしたヒッチハイクシリーズ第3弾にして完結編である朋友の「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」は、私の人生に影響を与えるほど感動した。同時期に始まったなすびの「電波少年的懸賞生活」や、Rマニアの「電波少年的無人島脱出」「電波少年的スワンの旅」もめっちゃ面白かった。 しかしどの企画も当事者にとってはかなり過酷なものであり、特になすびさんに至っては当時楽しんで見ていて申し訳なかったと思うほどに、想像を絶する過酷極まりないものであった。 それほどまでに大好きだった電波少年であったが、99年頃からはほとんど見なくなり、気が付けば放送は終了していた。 朋友のヒッチハイク旅は私の人生に影響を与えたと書いたが、この企画のオーディションが香港で行われた折、何故このオーディションを受けたのか?というプロデューサーからの問いに、後に出演が決定することとなる謝昭仁(チューヤン)は「I want to change my life」と答えたという。以前、彼らの旅中の日記を書籍化した「朋友日記」を当駄BLOGで取り上げた時にもそれは書いたが、自分の人生を変えようと行動する勇気を私はチューヤンからもらった。彼が特に珍しいことを言ったわけではないのだが、実際に変わっていく様を画面から目の当たりに受けて、自分も変わりたい、変わらねば!と真に思った。 自分を律するためにも過酷なことをやってみよう、私も人生を変えよう!と、09年6月から新聞配達に挑戦してみた。毎朝4時前起床、年間休日は新聞休刊日のみの10日だけという(自分にとっては)過酷そうに思えたバイトを、当初は朋友のヒッチハイク期間ぐらいやるつもりが結局3年半ぐらい続けたことで、ちょっとだけ変われる自信が持てた。今にして思えば何故新聞配達だったのだろう…? その後も色々なバイト生活を続けていたが、50歳で正社員試験を受け、遂に会社員に返り咲くことが出来た。これもチューヤンに習って自分の人生を変えようと勇気を出したからである。 電波少年のヒッチハイク3部作は総集編がYouTubeに上がっており(違法ですけど)、今でもたま~に見返しては元気と勇気をもらっている。そして心が萎んでくると、チューヤン画伯がロシアで貧乏凌ぎのために描いた絵のリトグラフを眺めては発奮興起している。 大学を出て半年で無計画に結婚・出産してしまったため、20代の頃は苦労が絶えなかったが、電波少年に救われた気さえする。まぁ、そういう趣旨の番組では決してなかったけどね… お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.08.24 16:59:39
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