カテゴリ:池田可軒さん
幕末のイケメン侍、またはスフィンクスと記念撮影した侍として人気のある備中国井原領主・池田長發(いけだ ながおき)。
歴史に興味のある方には、27歳にして横浜鎖港談判使節団の正使を務めた英俊として知られている。 池田可軒こと池田筑後守長發、天保8年7月23日(1837年8月23日)に、池田信輝の三男・池田備中守長吉の後裔である幕府直参旗本の池田加賀守長休の第4子として江戸で生まれ、井原領主・池田筑後守長溥の養子となった。幼名は孝七郎、英七郎。初名は經德、通称は修理、諱は長發、字は大禘、號を可軒という。 元々無理を承知で行った鎖港談判(1859年に開港された横浜を再び閉鎖する談判)が上手くいくはずもなく、最初に訪問した仏国で如何に日本が世界に後れているかを身をもって知った長發は、予定していた他国への訪問を中断して帰国の途に就く。バリバリの攘夷派だったのがすっかり開国派となって帰ってきた長發。早々の帰国に驚いた幕府が足止めしようとするも、開国の情熱に燃える長發は乗馬で江戸へ向かってしまう。途中で引き止められた長發は三使節(正使・副使・目付)で建白書を提出したが、その当夜に禄半減のうえ蟄居を命じらる。実兄である池田甲斐守長顕の五男・長春を養嗣子として家督を譲った。慶応3年(1867年)には赦免され軍艦奉行並となったが、健康を害していたため約半年で職を辞して岡山に移住、明治12年(1879年)9月12日に没した。 先頃、ふとしたことから彼に興味を持ち、長發さんに関連するいくつかの書籍を読んでみた。すると晩年は岡山市内(北区内山下や京橋町)で過ごしたこと、死因は明らかにされてないが脳梅毒の説があり、精神を病んで幽閉された時期もあったらしいということ、位牌は中区小橋町の國清寺に祀られ、お墓が中区東山の東山墓地にあること等が分かった。 150年前、まさかこの地に長發さんが暮らしていたとは…。長發さんがこの世に生を受けた132年後の同月同日に私が誕生したとは何たる偶然(太陽暦での話なのでちょっと強引)。國清寺は以前参拝して御朱印をいただいたことがあるが、そういえば池田家の菩提寺であった。 東山墓地は車で2~30分の距離なので、早速お墓参りをさせていただいた。こんなに近くに眠ってらっしゃったとは…。 岡山では “可軒さま” と呼ばれていたそうなので、私も今後は可軒さんと呼ばせていただく。 これからぼちぼちと可軒さんについて知り得たことを綴っていこうと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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