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2023.11.10
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カテゴリ:池田可軒さん
 文久3年(1863年)、27歳にして遣欧使節団の正使を務めた池田可軒(長發)は帰国後直ちに禄半減のうえ蟄居・隠居を命じらた。慶応3年(1867年)には赦免され軍艦奉行並となったが、健康を害していたため約半年で職を辞して岡山に移住、明治12年(1879年)9月12日に没した。
 
 可軒さんのお墓は岡山市中区東山の東山墓地にあり、Google Mapにもちゃんと載っている。岡山駅から新岡山港もしくは岡山ふれあいセンター行きのバスに乗り、山陽学園大学・短大前で下車。そこから徒歩で10~15分ぐらいで辿り着ける。 

 可軒さんのお墓には墓碑がぎっしりと刻まれていた。撰者である木畑道夫(號、坦斎)は岡山藩医だったが後に藩政・県政へと参画。また学者としても名声があり、可軒さんの岡山市隠棲中に深い文雅の交りがあった方とのこと。市立中央図書館に襲蔵されている木畑家文書には、可軒さんが坦斎さんに宛てた書簡が28通存在するそうな。
 坦斎さんが撰述した墓碑は以下のとおりである。

君諱長發、字大禘、通稱修理、後改可軒、源姓、池田氏加賀守諱長休第四子、系出於我舊藩祖伊香光武信輝命、君以天保八年丁酉七月二十三日生干江戸西窪邸、嘉永五年十一月爲同族筑後守諱長溥所養、家世爲幕府麾下、六年十一月筑州君卒、君襲後食祿千二百石、列小普請、君幼而頴悟、長受業於林祭酒、出入昌平黌、才學文章夙超越同儕、安政中幕府修系譜、君與有力焉文久元年轉小十人頭、除布衣二年轉目付、無幾遷外國事務立合兼知貿易事、三年二月承旨更正學制、其月従將軍上京、五月歸府、尋轉外國奉行、叙從五位下、稱筑後守、當是時各國請互市益急、朝廷令幕府拒絶之、幕府遣君歴説歐洲諸國諭旨、乃以其歳十二月解纜、翌年三月先到佛蘭西、佛人不答、君熟察其國情、且觀文物之盛、有所感因不復他往而反焉、閣老責其檀歸、君乞親謁將軍、將軍引見、君面述其所見痛論鎖港非計、將軍不懌、即日以忤旨停其職削祿之半使屏居、先是君以無子養同族甲斐守長顕第五子長春君、於是襲祿、慶應二年三月特旨赦罪、三年班軍艦奉行、無幾辭之、薙髪不復關于世事矣、及王政復古、官令舊幕麾下士大夫各就其邑、嗣君亦携家就邑於備中路入我岡山、承宗藩之旨、遂留於城下、君亦同焉、自是吟咏風月悠然自適將以送年偶得一疾荏苒不瘥、明治十二年九月十二日易簀、享齢四十有三、葬於上道郡義冡山、元配筑州君第六女先卒、有二女皆夭、繼室蜂谷氏、生二男二女、二男一女亦夭、君氣宇俊爽、臨機能斷、其當職也勇誌畢精不顧身家、而讀書志益堅、雖職屢轉事益劇而公退之餘未甞釋卷、傍好風流、詞人墨客蒙其欵接者不爲鮮、道夫亦甞辱其知矣、而淺陋之見、固不能窺其德業之一班、碑文之嘱不敢辭者、聊以答知遇之辱云
  明治十四年二月
 備前藩臣 木畑道夫謹撰
 妹尾德風 書
   可軒さんのお墓(左側面と裏面)

 ノート 参考文献
・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年
・岸加四郎『鶴遺老:池田筑後守長発伝』(井原市教育委員会)昭和44年
・『――井原市史紀要―― 井原の歴史』(井原市教育委員会)平成13年
 (池田長発の未発表書簡について)





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Last updated  2023.11.10 03:36:25
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