カテゴリ:池田可軒さん
池田可軒(長發)文久3年(1863年)から元治元年(1864年)にかけて遣欧使節団を率いて仏国を訪問し、帰国するや禄半減のうえ蟄居を命じらるも、慶応3年(1867年)には赦免されて軍艦奉行並となった。しかし病気を理由に半年で辞して岡山で隠棲生活を送り、明治12年(1879年)9月12日に没した。死因は明らかにされていない。
可軒さんの病気に関しては幾つかの文献に記されている。 昭和9年に発行された小林久麿雄著「幕末外交使節池田筑後守」によると、備前藩主池田家は備中井原池田家の宗家である関係上、転住について可軒さんが宗家へ寄せた書札には次のように書かれている。 「…然處私儀七八ヶ月以前重職掌被命候後、外國迄使節罷越候處、其後隠被申付、宥恕之後軍艦奉行並被命候處間無御座不快而退役仕候後、唯々病軀保養爲閑散游歩而己罷在…(略)… 就而福次郎義不及申上、私義迚同様粉骨砕身鞠躬勉勵可仕之段、今更改而申上候迄無御座候得共、前文申上候通多病之事故、朝廷之御奉公之義十分相勤候次第…」 可軒さんと親交の深かった木畑坦斎さんの御子息・木畑竹三郎氏が序文を寄せているが、その中で可軒さんが坦斎さんに寄せた詩が書かれている。 「病軀一臥四年餘、風月睽違不到廬 誰是爲余訴心事、羨君耕讀在詩書。」 昭和40年に発行された郷土史家の岡 長平著「ぼっこう横町」に可軒さんのことが少しだけ書かれているが、それによると――。 「長発は、岡山で悠々自適、浮世を捨てて、誌書にその日を送ってたが、明治十二年に、四十三才で、荒神町の屋敷で死んだ。巴里でもらった脳梅毒が、命とりだったとか……」 そして昭和44年発行の岸 加四郎著「鶴遺老:池田筑後守長発伝」にも、可軒さんの病気に関する記述が幾つかある。 まずは、横浜鎖港談判使節団に随行した田辺太一によると、「往々にして咄咄書空の状」に陥っている池田正使を見た、とのこと。無理な談判でノイローゼ気味になっていたのかも。 「その病名が医学的に何であったかはわからない。しかし遣欧使節から帰朝した前後に奇矯な行動が二三あったことは事実である」 「この手禄(不亀手録)四十冊余はもちろん可軒が維新後岡山に隠棲して後の編集だろう。明治十二年死去の一両年前は脳梅毒による完全な分裂症状であったが、それまでの十余年は全く狂い続けではなく、文人墨客との交わりもなされていた様である」 昭和43年発行「書誌学(11-13)」に載っている岡田祐子著「池田可軒の舊藏書(1-3)」には、舊藏書(旧蔵書)に見えた可軒の書き入れと題し、精神を病んだ時代の可軒さんが蔵書に書き込んだ文言等も詳しく紹介されている。 「特に漢魏叢書・禹貢匯疏・説郛・太平御覧には多くの戲書がみられる。また默齋先生發論語講義の書き入れは非常に手元確かに書かれていて、比較的病気の軽い時に書かれたものではないかと思われる。それにひきかへ、漢魏叢書には文字を勝手に色々と作ったり、本文及び著者名をみだりに直したりしている。全般的にこの叢書に見える書き入れは字形をなさない、判然としないものが多く、中には幻想的な繪畫も書かれたりしている。禹貢匯疏には「發狂ニ付謝禮」といふ言葉も出て来る。ここでは本文中に數ヶ所朱でもって木畑貞履という学者が校をつけているのを、可軒は自分が校したと錯覺して、巻頭に『池田長發校』としている」 「又「增評唐宋八大家文讀本」の中に『囚長發于其家奪妻名富○其之因外不許交親御』といふ文も出て来る。これは自分は囚へられ、妻をも奪はれ、親しく妻と交はることもできないといふ意味だらう。富時可軒は狂氣のため、多分家人とも隔離され、幽閉されていたらしいことが想像され、恐らくこれはその時に書かれたものだろう」(○=ウ冠に夏) 可軒さんが軍艦奉行を半年ほどで理由不明のまま辞しているのは、彼が帰朝して実に3年目のことで、脳梅毒をパリでもらったとすれば、この病気は3年位経て発病するのが普通であるというから、この病気のために脳神経が冒されて精神状態及び健康状態ともに優れず、その職務に耐えられなくなって辞職したと見ることは、あながち不可解なことではなかろう――と岡田さんは記している。 岡田さんの分類した狂った時代の書き入れに、自分を偉がっている言葉の見えるもの、ということで様々な書き入れられた言葉が紹介されて、王侯なみに自分を偉く思っていたらしいと書かれている。 ネットで梅毒について調べてみると、末期の神経梅毒で通常40代または50代で始まる実質型神経梅毒では、病識の欠如を伴う誇大妄想(自分を有名人や神、神秘的な力をもつ存在と思い込む)がみられることがあるとのこと。実際に可軒さんが脳梅毒だったのかどうかは分からないけれど。 平成13年に井原市教育委員会が発行した冊子「井原の歴史」創刊号には、木畑坦斎さんが可軒さんの訃報を記している明治12年9月13日の日記のモノクロ写真が載っているのだが、辛うじて “可軒君” という文字が分かるだけで、あとはさっぱり読めない。学生時代に購入した「くずし字辞典」、まだ実家に残ってるかなぁ… 「時には病が重くて幽閉されたこともあるらしく、うす暗い部屋にとじ込められ、昔から慣れ親しんできた書物を前に、筆をもてあそびながら心に浮かんでくるたわいもないことを恥とかいった理性的なブレーキを忘れて、一心に書き綴っている姿を想像すると、何かしら可哀そうで可哀そうで、寒々した人気のない書庫の中で一人、思わず涙ぐんでしまいました」 学生だった岡田さんはこのように書かれていたが、私も可軒さんの晩年を知った時から遣瀬ない思いを引き摺っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.11.11 04:58:21
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