カテゴリ:池田可軒さん
池田可軒(長發)は旗本で、備中国井原領主である井原池田家の10代目である。今回はこの井原池田家の系譜をざっくりと辿ってみよう。
先祖は戦国時代に織田家重臣の一人だった池田恒興。 織田信長亡き後、織田家の継嗣問題及び領地再分配に関する会議である清須会議に出席し、羽柴秀吉らと三法師を擁立。領地の再分配では摂津国大坂・尼崎・兵庫12万石を獲得したが、その後美濃国内に13万石を拝領し大垣城に入るも、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍の戦いである小牧・長久手の戦いにて戦死した。 恒興の次男・池田輝政が家督を継いで播磨姫路藩初代藩主となり、その後輝政の長男・池田利隆が家督を継いで播磨姫路藩2代藩主になる。しかし弟である輝政の五男・池田忠継が僅か5歳で備前岡山28万石に封じらると、幼年の忠継に代わって執政代行として岡山城に入り、利隆は岡山の実質的な領主として藩政を担当。忠継は輝政の姫路城に暫く留まっていたが、輝政の死後、16歳で初めてお国入りをした。この忠継が備前岡山藩初代藩主となる。ちなみに岡山藩池田家宗家は輝政が初代となっている。 可軒さんは恒興の三男・池田長吉の流れを汲んでいる。長吉は秀吉の養子(猶子)となり、従五位下備中守に叙任され、近江国内で1万石を知行される。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、褒美として因幡国4郡6万石と鳥取城を与えられて因幡鳥取藩初代藩主となった。 長吉の長男・池田長幸が家督を継ぎ因幡鳥取藩2代藩主となったが、備中松山へ移封されて備中松山藩初代藩主となる。官位は父と同じく従五位下備中守。 【1】いよいよ旗本・井原池田家誕生! 長幸の長男・池田長常が家督を継いで備中松山藩2代藩主となったが、長幸の三男である池田長信は備中後月郡のうち井原村・片塚村・宇戸川村・梶江村の4か村において1,000石を与えられて旗本となり、井原に陣屋を構えた。井原池田家の始まりである。また、通称の修理も長信からだ。 「池田可軒 肆・采邑」で可軒さんが井原を訪れた際、江戸屋敷に祀っていた尾砂子社と井原の尾砂子社の合祀を村に命じたと書いたが、『後月郡誌』によると、大名池田家が長常の死により絶家となったときに弟・長信の乳母・尾砂子が幕府に嘆願して家名再興を許され、旗本修理家を興したという。まぁこの説には色々とおかしな点もあるのだが、尾砂子が井原池田家成立に何らかの貢献はしたようだ。ひょっとすると尾砂子は長幸の妾で長信の生母だったのかもしれないという説もある。 【2】長信の長男・池田友政が遺領を継ぐも、弟である次男の池田利重に300石を分与して所領は700石に。それから26年後に上野国山田郡・下野国足利郡内において500石を加増され、所領は1,200石となった。官位は従五位下筑後守。 【3】友政の長男・ 池田政応が遺領を継ぐも、弟に300石を分与したため所領は900石となった。 【4】政応の長男・池田豊常が遺領を継ぐ。 【5】豊常が25歳で亡くなり嗣子がいなかったため、友政の次男で利重の婿養子になっていた池田政相の次男・池田政倫が豊常の末期養子となって遺領を継ぐ。堺奉行や大目付等を務めた。官位は従五位下筑後守。この政倫以降は全て養子が継ぐことに。 【6】政倫も子がおらず、政相の子・池田政胤の娘を養女に迎えたうえで、利隆の玄孫で備中生坂藩2代藩主である池田政晴の四男・池田長恵に嫁がせて跡を継がせた。長恵は京都町奉行、江戸南町奉行、大目付を歴任。官位は従五位下筑後守。 【7】長恵の嗣子は早世したため、利隆の来孫で備中鴨方藩5代藩主である池田政直の三男・池田長義が8歳で養子となって家督を継いだ。 【8】長義は22歳で逝去して子がおらず、池田政貞の次男・池田長喬が18歳で養子となり跡を継ぐも21歳で逝去。この池田筑前守政貞がどの家系の方なのか分からないが、まぁ池田さんなので何らかの繋がりはある方なのだろう…おそらく。 【9】長喬の末期養子として迎え入れられたのは、近江国大溝藩8代藩主である分部光実の五男・池田長溥。井原池田家初代の長信には3人の男児がおり(長男・友政、次男・利重、三男・信政)、その三男・分部信政は近江大溝藩3代藩主である分部嘉高の末期養子になっていた。嘉高の母は(長信の兄である)長常の娘なので、嘉高の母と信政は従姉弟でもある。ということで、光実は長信の来孫にあたり、長溥は昆孫だったりする。嗚呼、ややこしい。 普請奉行や作事奉行、大目付などを歴任し、所領は300石加増の1,200石に。官位は従五位下筑後守。正室・鶴子との間に二男一女を授かるも皆早世し、鶴子も29歳で逝去。継室に迎えたのは、朱子学派儒学者の林羅山を祖とする林家8代で林家中興の祖ともいわれる林述斎の六女・纜子であった。長溥は十数人の子を設けたが男児が育たず、養子を迎えることに。 【10】友政の玄孫である池田長休の四男・池田経徳が16歳で長溥の養子となる。嘉永5年(1852年)11月25日に経徳は長溥の六女・絖子(12歳)の婿養子となって跡を継ぎ、翌月には名を長發と改めた。「詩商頌曰、濬哲維商、長發其祥」という『詩経』の語句からとられており、名付親は大学頭の林健。健は述斎の孫である。 万延元年(1860年)5月に長女を授かるもたった二日で夭逝、翌文久元年(1861年)5月には次女・皋子(さはこ)誕生。しかし文久2年7月(1862年)に絖子逝去、享年23歳であった。同年12月、旗本蜂谷主殿の長女・富子を継室として迎えた。 小普請組から身を起こした長發は、文久2年に目付、同3年には火付盗賊改、京都町奉行と歴任し、同年9月に外国奉行に抜擢され、従五位下筑後守を仰せ付けられる。そして12月には遂に横浜鎖港談判使節団の正使に任命されて渡仏。皇帝ナポレオン3世(Napoléon III)に謁見し、フランス政府とパリ約定を結んで元治元年(1864年)7月に帰国。開国の重要性を力説するも幕府はパリ約定を破棄、長發を免職し、家禄半減のうえ蟄居を命じた。 元治元年7月23日付で幕府より隠居を仰せ付けられた長發は即日、実家の当主で実兄である池田長顕の五男・池田福次郎(後の池田長春)を養嗣子として家督を譲った。慶應2年(1866年)に処罰は解かれたものの、家禄は600石のままだった。長發は剃髪して名を可軒と改めていたが、慶應3年に軍艦奉行並を命じられて再び池田筑後守に改名。しかし半年後の6月末に健康上の理由で辞職し、7月には再度剃髪して可軒と改め、隠棲生活に入った。 慶應元年4月には珀子、慶應2年12月には田鶴吉が出生したが、二人とも夭逝。慶應元年5月、妾・上田タマ子との間に生まれた東寧丸も生後5ヶ月で世を去ってしまった。 明治元年(1868年)に本貫地帰住が許されて岡山へ向かう途中に滞在していた京都で、6月に蓮子誕生。岡山市に落着いてからは、明治3年1月に駒吉が誕生したが2歳で夭逝。妾・庄司ハル子との間には明治2年5月に通子、明治3年10月には磯吉が出生したが、二人とも夭逝。明治3年9月には妾・森リウ子との間に摂吉が誕生したが、やはり3歳で夭逝している。次女の皋子は長春を婿養子にする予定だったが、明治10年に17歳で逝去。可軒さんは10人の子を設けたが、内9人が親より早くに亡くなっている。 明治12年(1879年)9月12日、可軒42歳にして逝去。戒名は賢忠院殿蘭翁可軒大居士。大正4年(1915年)に正五位を追贈されたそうな。 【11】長發の養子・福次郎は長春となり、明治17年に長發の四女・蓮子と婚姻。長春は明治21年に28歳で逝去し、嗣子がいなかったため蓮子が家督相続願を出した。長春と蓮子の間には一女・釣子がいたが、別家へ嫁いだ。 井原池田家は長春で終わったが、旧岡山藩士番の池田長世が後入婿となり、一子・池田長堅が誕生。しかし長堅には子がなく、池田家は途絶えた。辛うじて釣子の嫁ぎ先の家系が、可軒さんの血脈を保ってくださっているはずである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.11.25 02:16:39
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