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2024.06.15
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カテゴリ:池田可軒さん
 27歳にして遣欧使節団の正使を務めた幕末のイケメン侍、池田可軒(長發)さん。その可軒さんがちらっと登場する村松梢風の小説「ふらんすお政」は、昭和8年(1933年)に汎文社から出版された。
 前回では物語の前半をざっと紹介したので、今回はその続きから。約90年前に書かれた遣欧使節団に関する記述が興味を引いたので、少し(少し…!?)引用させていただく。

 間宮から寂れた古寺に呼び出されたお政は、2年ぶりに間宮と再会した。互いの近況等を話しながらも、お政は相手がどういう気持ちで呼び出したのかを早く知りたいと思い、一方の間宮は自分の冷静な態度が段々壊されて、異人に対する憤慨よりも女の誘惑の方を強く感じだしていた。間宮はモンブランがどういうことを画策しているか話してほしい、間者になってほしいと言ってきた。お政がその頼みをきっぱり断ると、間宮の仲間である尊皇攘夷派の浪人が4、5人やって来てお政を斬り捨てようとしたが、浪人組を牛耳っている男はお政を解放した。

 文久3年(1863年)12月29日の横浜港は大変な騒ぎだった。それは幕府が鎖港談判の使節として仏国に派遣する池田筑後守の一行が出発の日だった。
 幕府が海外へ使節を派遣するのはこれが3度目だった。第1回は万延元年(1860年)の新見豊前守一行の遣米使節、第2回は文久2年(1862年)の竹内下野守一行の遣欧6ヶ国への使節、第3回が即ち今回の遣仏使節である。
 前2回の使節は条約批准交換、国書奉呈等の目的を持って派遣されたものだが、今回の鎖港談判使節なるものはそもそも何のために行くのだか、その目的が甚だ曖昧であるというので、当時においても、後世でも疑問とされているのだ。幕府は欧米諸国と条約を締結したが国論はそれと反対に傾いて、文久3年には朝廷は期日を定めて攘夷を断行すべき厳命を幕府に対して降した。徳川幕府が内外の政局において最大の危機に直面したのがこの年だった。幕府はやむを得ず横浜で鎖港談判を開こうとしたが、外国側は受け付ける道理がなかった。その結果、ナポレオン三世(Napoléon III)へ直接使節を派遣して鎖港の交渉を行わせるというのが今回の使節派遣の口実であって、使節出発と同日を以って将軍家茂が再度の上京をして攘夷鎖港の延期を朝廷に奏請することになった。然し横浜においてすら全然可能性のない鎖港談判が、日本の国情をより理解せざる欧州の地において成立する見込がないことは火を見るよりも明らかだ。しかも条約は諸外国と締結してあるのに、仏国一国だけへ使節するというのがそもそも意味をなさない話だ。だから京都でもこの点について大いに疑議を発し、島津久光等は大反対で、使節を上海から呼び戻すべしと論じたくらいだが、幕府方は承き入れなかった。
 疑えば疑える節はいくらでもあるのだった。それより先9月2日に、3名の仏国人が横浜から戸塚へ遠乗りをしようとして井戸ヶ谷村へ差し掛かったとき、突然数名の浪士に襲われて、その内の一人、公使館付士官カミュウルなる者が惨殺された事件があった。当時横浜の居留民全体は非常に激昂して、外人の遊歩区域内においてかかる惨劇を発生せしめたことは許し難い手落ちだから激烈なる手段を以って幕府に当たるべしとの輿論であった。ところが仏国の出先当局は意外に温和な態度で幕府に対し平和的解決を要求したのだった。それで幕府は被害者の遺族に対して2万ドルの見舞金を贈ることになってこの事件は落着し、今度使節がパリへ行ったとき、カミュウル遺族を訪問して弔意を表し、その見舞金を交付することも含まれている用件の一つだった。
 要するに、鎖港談判とは表面上の名目に過ぎなくて、使節派遣の目的が他にあることだけは想像するに難くないのだ。
 それはともかく、この日、正使池田筑後守、副使河津伊豆守、目付河田相模守等一行34人は、東波止場から多数の官民の見送りを受けて小舟に乗り、更に碇泊している仏国の軍艦モンジュル号に乗り込んだのだった。

 幕府の目付で、鎖港談判の委員として去る9月以来横浜詰を命ぜられていた栗本鋤雲は、使節の一行を見送った後、特に用もないので帰路についていると、後ろから外国奉行の小栗上野介に声を掛けられた。
 二人は外国奉行役宅へやって来て、小栗は外人接見室に栗本を導き入れた。二人は最初遣仏使節について語り合った。
「鎖港などは出来るはずがない。その出来もしない談判に遣られた池田は実際気の毒だよ」
と小栗は渋いような顔をして笑った。政局の真の枢機に與っていない鋤雲にはまだ解しかねる点があった。
「何のために池田を遣ったんです?」
「早く言えば謝罪使さ。仏国の士官を殺したんだから先方へ謝るのが当然だ。しかしそれだけじゃない。一応謝ったうえで、他のことは宜しくお頼み申しますというのが池田の使命ですよ。英国が長州を助ける以上は、こちらは仏国を頼むより外はありませんからね」
「それでは帰ってくる時には一体どう言って帰ってくるのです」
「それは鎖港が出来なかったと言ってくるでしょう。また、そう言ってもらわねば困る。だから実を言うと、行かぬ先から役目不首尾の罰則まで決まっているようなものだから、およそ今日出掛けた使節ほど馬鹿げた役目はありませんよ」
「しかし、もう一つの用件の方は?」
「それは無論上手くいくでしょう。しかし上手くいってもこれは秘密だから池田の手柄にしてやることは出来ない」
「池田さんはそれを承知で出掛けたのですか」
「いや、彼は人がいいからそこまでは考えていないだろう。だから気の毒です」

 ――横浜鎖港談判使節団の話は知れば知るほど悲しくなる。可軒さんがあまりに気の毒すぎる。鎖港談判使節についてはこの頃からこういう認識だったのね。本当に可軒さんはよく頑張ったと思う。脳梅毒だか知らないけどそりゃ精神も病んじゃうよ…しょんぼり





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Last updated  2024.06.15 17:34:05
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