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2024.06.19
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カテゴリ:池田可軒さん
 幕末のイケメン侍、またはスフィンクスと記念撮影した侍として人気のある池田可軒(長發)さんは、27歳にして横浜鎖港談判使節団の正使を務めた英俊としても知られている。この使節団の目的は、開港場だった横浜を再度閉鎖する交渉を行うという到底実現不可能なもので、幕府としても無理を承知のうえで朝廷(や世間)に対して時間稼ぎのために送り出した使節団であった。
 そんな過酷で悲惨な役目を何故可軒さんが負うことになったのか、今回はその経緯をざっくりと記したうえで、渡欧に先立って奉じた上申書を御紹介。

 嘉永7年(1854年)の日米和親条約により下田と箱館が、そして安政5年(1858年)の日米修好通商条約(安政五カ国条約)により、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)を開港・開市することとなり(神奈川開港6か月後に下田は閉鎖)、各開港地に外国人居留地を設置することが決められた。(他にも領事裁判権の規定、関税自主権の欠如といった不平等条約であった)
 しかし日米修好通商条約調印に際して孝明天皇は強く反対し、幕府が勅許を待たずに調印。これが後に安政の大獄桜田門外の変へと繋がっていくのだが、文久2年(1862年)11月に急進的攘夷論者の勅使・三条実美が将軍・徳川家茂に「醜夷を拒絶すべし」と破約攘夷の実行を求める勅書を手渡し、家茂は勅書を受け入れて来春に京都に上り攘夷の詳細を説明するという回答書を提出。文久3年(1863年)3月、上洛した家茂(将軍の上洛は寛永11年(1634年)の徳川家光以来229年ぶり)に「君臣の名分を正し、人心の帰嚮を一にして攘夷の成功を期せしむ」と勅諭を述べた孝明天皇は、後日行幸して攘夷を祈願。4月20日、家茂は攘夷の実行を5月10日と決した。これを受けて翌日、天皇から諸大名に「軍政相整え、醜夷掃攘これ有るべく」とする命令が出される一方、同日家茂からは「五月十日拒絶に及ぶべき段、御達し相成り候」(5月10日から条約破棄交渉を実施する)とした上で「(外国の)襲来候節は掃攘致し候様、致さるべく候」とあくまで先方からの実力行使があった場合だけ応戦するようにとする命令がやはり諸大名に下されていた。
 そして迎えた5月10日。「譬皇国一端黒土成候共開港交易ハ決而不好候(国土が焦土になっても開港交易は認めない)」とする宸翰が発せられ、長州藩は関門海峡を通過した米国船に砲撃を加え、その後も外国船への砲撃を実施。7月には英国の軍艦が薩摩藩に対して生麦事件(文久2年8月に生麦村で薩摩藩士が英国人を殺傷した事件)の犯人引き渡しと賠償金を求めて鹿児島に来港し、渉決裂に伴って薩英戦争が勃発した。
 その後も攘夷実行や破約を求める勅書が諸大名に発せられたが、孝明天皇は自身の意思と無関係に急進的な勅書が出ることを憂慮して、急進的攘夷論の公家を朝廷の中枢から追放(八月十八日の政変)。これらのごちゃごちゃにより事実上攘夷勅命は無効化したものの、攘夷自体は放棄しておらず、ここにきて幕府は横浜鎖港談判の使節派遣を決めるのである。(以上、ざっくりとWikiさんより)
 万が一にも談判が成功して鎖港できれば奉勅の一端として幕府の尊王が実証出来るし、不成功だったにしても各国を歴説して回るのに1、2年は掛かるだろうから、その間に世間の事情も変わるだろうという当座凌ぎの策を取ることにしたのだ。
 当初は若年寄の秋月左京亮や、罷免された前老中の小笠原図書頭を使節に任命しようとしたそうだが、結局正使を務めることになったのが池田筑後守、我らが可軒さんであった。そして副使にはベテランの河津伊豆守、目付に河田相模守が選ばれた。

 上 申 書

 今般、私共、佛英其外國々へ、鎖港之儀に付爲御使罷越候に付而は豫め被爲施御處置之次第、(長州處分之事、尤其内のヶ條たり、)申置候趣も有之、近々御執行の運に相成候處、一体御用筋、御條約面に相觸れ候儀、及談判候事にて固より正大公明の議論を以て、執爭折服致兼候儀に御座候間、彼方氣受尤肝要に候處、各國へ被爲對、此迄の處、殺傷等引續有之、御殿山公使舘も、折角經營候處、燒失致し、然も暴徒の放火にかゝり候との風聞も相聞え、夫是交際上不都合の事共差重なり、長州發砲の始末におよび、事勢切迫、御懸念不少に付而は、各國公使はじめ、江戸表出府も御差止相成、先は横濱へ御閉置被成候も同樣の御待遇、其上京師の御模樣も自然外國人承り込罷在、當夏中御條約に全違背相成候鎖攘の御書簡、圖書頭殿御在職中被遣、其儀各國公使より銘々本國政府へ申遣候は勿論の事可有之、尤も先般右書簡は御取戻しにて御取消の趣被仰遣候得共、彼是議論申立候儀も有之、右等の廉により推考仕候えば、如何樣御懇親の旨、言辭を以て説得仕候とも、各國政府にては、其廉事實に不相露候上は、此等事情の委曲摸通り不申、定而御交際之御義理に相外れ、御懇親の御情合無之事と而已、一概に存取り、詰り鎖國の舊に可被爲復御目論見に可有之樣、猜疑の念差含候は必定にて、既に長州發砲の儀に付而も、政府の御處分を手ぬるく存取、直に各國より、軍艦差向け候趣も相聞え候、其兵機を未發に収め候儀も、僅に今般御使の談判賴有之候間、いづれにも先頃軍艦練所において、御手前樣方、亞蘭兩國公使に御談判被爲在候通り、御和親の御義理、御懇篤の御意味を押立、御國内の形勢、無餘儀事情委曲説明および、一時人心鎭靜方の方畧等談判いたし候趣を以ッて、自然鎖港の儀に相渉り候心得にて御座候間、彼方氣受不取失、横濱貿易筋、各國公使御接待振等、事實に御懇親の廉相見え候樣御仕向、公使共より政府へ非難申立候口實無之樣被成遣不申候ては、談判の御趣意相貫兼可申而已ならず、多少の行違相生じ、今般御使被遣候御趣意を以、敵意被爲任候樣存取、却て兵機を促し御條約御違背の名義に被相唱候て、各國連衡軍艦差向け、手詰の議論等に及間敷とも難申候、左候節は、私共一命固より覺悟候事には候得共、事の曲直、理の順逆、悉とく御趣意の筋とは相反し、却て一時疎暴過激の輩、自己の憤意相霽し可申ため、無謀の浪戰におよび可申端緒を啓き、御國事を誤り、兵禍の結ぶところ、慘毒百萬の生靈に及び、追て御國是御据り候後にいたり候も、取戻し不相成、無上の御失擧、天下永世の訾詬可受儀と尤も以心配仕候間、私共出帆仕候後、彼方談判筋は、私共舌頭にて相纏り可申ものと思召されず、前斷申上之通り、横濱貿易も衰頽不致、(此時桑を植えるを禁じ、種紙の出港を制限する等の議あるを以てなり、)公使御待遇向も、尚更御懇親被爲盡、中外相照應候而、不都合の事出來不申樣御處置御座候樣仕度奉存候、依之此段申上候

 「私共一命固より覺悟候」と死を賭して悲壮な覚悟で渡欧した可軒さんなのであった。

 ノート 参考文献
・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年
・田辺太一著 坂田精一[訳・校注]『幕末外交談』2(平凡社東洋文庫)昭和41年
・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年





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Last updated  2024.06.19 11:59:16
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