カテゴリ:池田可軒さん
池田可軒(長發)さん率いる横浜鎖港談判使節団一行34人は文久3年12月29日(1864年2月6日)に仏国軍艦ル・モンジュ号で日本を出発した。軍艦の甲板には好意のつもりで日本人用に畳を敷いて廐のようなものを造ってくれていたようだが、これはこれで大変だったらしい。
また食事にも困ったようで、パンは何やら気味が悪いし、牛肉は臭気がどうも…と洋食が合わず暫く絶食状態であった。そんな中、雑役の青木さんが持参していた好物の餅を食べ終えて船上に出たところへ可軒さんが一人、青ざめてひょろひょろと、まるで幽霊のように現れて 「せめて粥にても欲しく思えども我が家来とても死人の如く物の役には立たず、そちの働にて空腹をしのがせてくれ」と声を掛けた。 「委細かしこまり候」と日本から持参した囲い米を少し取ってきた。そして体を縄で帆柱に括り付けて海水を釣瓶で汲み上げて粥を作り、可軒さんを始め皆に振舞ったところ乞食の如くがっついて食べたという。 この使節団、通訳のブレッキマン(F. Blekman)を除いた日本人全員が海外初体験であった。 翌年1月6日上海着。ここでも、食事の際に使節の一人がフォークとナイフを手に持って鼻の所に手が来ると、どうも臭う。そこで仏語の通訳官として随行していた塩田さんに “どうも自分の手が臭いんだけど、どういうこと!?” と聞いた。 「御前は食事の前に何方にいらっしゃったか」 「うむ、雪隠に行った。それから手を洗ったのだが、どうも此処に来てから臭くてならぬ」 塩田さんがその手を嗅いでみると、正しく小便の臭いがする。 「何処でお洗いなさった」 「手水場で洗った」 日本人の習慣として雪隠に行けば手を洗うに決まっているので、どこか手を洗う所がないかと見ると棚の上に壺があったので、両手を挿し込んで手拭で拭いていたのだが、その壺はまさかの小便壺であった。それが分かって大笑い大騒ぎとなったものの、悲しい哉、御奉行始めいずれも小便壺で手を洗っていたことが判明したのであった。 また従者の一人が廊下で詩を吟じたところ、宿屋の主人に支那人の乞食が来たと勘違いされて、大声で追い払われそうになったという。 1月13日に仏国郵船ヘータスツ号に乗込み、翌14日出帆。17日香港着、アルベートル号に乗換。船中の浴室では自動で湯が出て水温調節可能なことにビックリ!こんな便利なモノを体験しちゃったら、いかに攘夷派の可軒さんでも開国したくなっちゃうよ…。 香港を出てからは次第に暑くなってきたので、荷物倉を開いて夏物の衣類を出していたところ、行方不明になっていた可軒さんの酒樽を発見。夜食時に皆で日本酒とデザートのアイスクリームを楽しんだのであった。 23日西貢(ベトナム)着、初めて馬車に乗る。26日新嘉坡(シンガポール)着港、27日出帆。 2月3日錫羅島(スリランカ・セイロン島)着。ここが彼の天竺かぁ~と我も我もと上陸し、「生きながら西方浄土へ入たる心地にて感涙袖をぬらしけり」と有難がる人もいれば、多くの廃寺や粗悪な仏像などを目にして失望する者もいたという。その帰りに乗ったカノー(丸木舟)の水夫が金を要求して本船へ着けようとしなかったため、大喝一声、抜刀して棒を切ってみせたところ、水夫は驚いて舟を本船に着けたのだとか。 5日仏船エルショウに乗り換えて紅海へ。この頃にはすっかり船旅にも慣れ、船中で闘詩句会を開催。田辺さん、杉浦さん(杉浦 譲。後に郵便制度の基盤を整備した)、相模守、可軒さん佳句多し――とのこと。13日亜丁(アデン)着、上陸してみたものの土地の悪しきと人気の狡猾さに閉口。 19日蘇士(エジプト・スエズ)上陸、初めて汽車に乗ったときのこと。4時間で47、8里(1里=約3.9km)進む汽車は、途中にトイレ休憩があったのだが、そのことを知らなかった或る者は車中で大便を山盛りにしてしまったそうな。夜半にカイロに着き、国王の別宮泊。23日に使節並びに調役連は国王に謁見。それから市中の浴場へ。その後、葬式や婚礼も見て、パナニ(バナナ)を初めて食す。西瓜と梨子とを一つになしたる如くなり風味至ってよろし。28日にはピラミッドを見物。更にスフィンクスをバックに記念撮影。 3月1日には国王より祝宴が開かれ、客間の明るさに驚きを隠せず。3日に出発して22時にアレキサンドリア着。4日14時半に出発し、仏汽船ペルリン号に乗り込んだ。 3月10日15時仏国マルセイユ着。その美麗宏壮なのには千感万嘆ただもう呆れるばかり。船から見えただけで感極まって泣いている。やっと我に返って、同じ人間でありながらどうしてこの返の有様と我が日本とはこうも違うのかと憤慨悲憤するのであった。 マルセイユ市長が訪れ、陸上には歓迎の兵隊がおよそ15,000人。いずれも剣を抜き持ち、騎兵も多人数で待ちもうけたる有様に驚く。上陸後、歓迎委員が帽子を脱いで挨拶するので、見習って挨拶しようも陣笠の紐が解けず大弱り。用意された馬車10輌に分乗し、ホテルに到着してまたまた宏壮さにビックリ!博物館や公園、芝居も見物。夜には市中の明るさに驚きを隠せない。そんな中、使節団の一員である横山さんが体調不良でマルセイユに残ることに(エジプトで黄熱病に罹り、1864年4月26日にマルセイユで死去)。 15日にマルセイユを出発、途中でトンネルを通って驚いたりしながら夜にリオンで休憩を挟み、16日朝やっと巴里(パリ)到着。何処の停車場で飯を食うと言うと、停車場に着いた時分にちゃんと仕度が出来て待っていることに驚く一行。電信のあることなど知らなかったのだ。パリ・グランドホテルの宏壮さはマルセイユの比ではなく、水洗トイレに不思議がり、寝室が立派過ぎて寝られなかった。 3月20日に外務省で外相を訪問し、列国外交団を歴訪。その時に可軒さんは紋章の入った仏和両文の名刺を作成している。 “Ambassadeur de L. M,taicoun du Japan(大君の使節 池田筑後守)” その後(28日?)、皇帝ナポレオン3世(Napoléon III)に謁見し、国書を捧呈。具足、大和錦、太刀、蒔絵の箪笥等を贈り、その他の官吏に縮緬などを贈って非常に珍しがられたという。 劇場に招待されたり、遊所(廓)に出掛けたり、動物園で獅子やら河馬やらに驚いたり。可軒さんと河津伊豆守は造船所見物にも出掛けている。 そしていよいよ4月9日から談判が始まった。どうなる可軒さん!? 参考文献 ・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年 ・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年 ・尾佐竹猛『幕末遣外使節物語――夷狄の国へ――』(岩波文庫)平成28年 ・榎本 秋『世界を見た幕臣たち』(洋泉社)平成29年 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024.06.22 02:28:17
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