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2024.06.22
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カテゴリ:池田可軒さん
 話は少し前に遡る。池田可軒(長發)さん率いる横浜鎖港談判使節団は文久3年12月29日(1864年2月6日)に仏国軍艦に乗り込んで出発したのだが、その2日前の27日に横浜表へ向かっている。同日、徳川家茂が乗船した軍艦・翔鶴丸も京に向かって品川を出発していた。
 前年に続き2度目の上洛を果たした家茂に対し、孝明天皇は文久4年1月27日に次のような宸翰を下賜された。家茂の奉答書と合わせて書き写しておく。

 「朕不肖の身を以て、夙に天位を踐み、忝くも萬世無缺の金甌を受け、恒に寡德の先皇と百姓とに背ん事を恐る、就中嘉永六年以來、洋夷頻に猖獗來港し、國体殆どいふべからず、諸價沸騰し、生民塗炭に苦む、天地鬼神其れ朕を何とか云ん、嗚呼、是誰の過ぞや、夙夜是を思て止む事能はず、嘗て列京卿武將と是を議せしむ、如何せん昇平二百有餘年、威武を以て外寇を制壓するに足らざることを、若し妄に膺懲の典を擧んとせば、却て國家不測の禍に陥ん事を恐る、幕府斷然朕が意を擴充し、十余世の舊典を改め、外には諸大名の參覲を弛め、妻子を國に歸し、各藩に武備充實の令を傳へ、内には諸役の冗員を省き、入費を減じ、大に砲艦の備を設けり、實に是朕が幸のみに非らず、宗廟生民の幸也、且去春上洛の廢典を再興せし事、尤嘉賞すべし、豈料んや藤原實美(※1)等、鄙野匹夫の暴説を信用し、宇内の形勢を察せず、國家の危殆を思はず、朕が命を矯て、輕卒に攘夷の令を布告し、妄に討幕の師を興さんとし、長門宰相の暴臣の如き、其主を暴弄し、故なきに夷舶を砲撃し、幕使を暗殺し、私に實美を其本國に誘引す、如此狂暴の輩、必罰せずんばある可らず、然と雖も、是朕が不德の致す所にして、實に悔慙に堪ず、朕又惟ふ、我所謂砲艦は、彼が所謂砲艦に比れば、未慢夷の膽を呑に足ず、國威を海外に顯すに、(此處脱誤あるがごとし、未だ校正に暇あらず、)頻に願ふ、入ては天下の全力を以て、攝海の要津に備へ、上は山陵を安じ奉り、下は生民を保ち、又列藩の力を以て、各其要港に備へ、出ては數艘の軍艦を整へ、無飫の醜夷を征討し、先皇膺懲の典を大にせよ、夫去年は將軍久く在京し、今春も亦上洛せり、諸大名も亦東西奔走し、或は妻子を其國に返らしむ、宜也、費用の武備に及ばざること、今よりは決して然るべからず、勉て太平因循の雑費を減省し、力を同し、心を專にし、征討の備を精鋭にし、武臣の職掌を盡し、永く家名を辱る事勿れ、嗚呼、汝將軍、及各國の大小名、皆朕が赤子なり、今の天下の事、朕と共に一新せんことを欲す、民財を耗す事なく、姑息の奢をなすことなく、膺懲の備を嚴にし、祖先の家業を盡せよ、もし怠惰せば、特に朕が意に背くのみに非ず、皇神の靈に叛くなり、祖先の心に違ふなり、天地鬼神も、亦汝等を何とかいはん」

 これに対する家茂の答奉
「宸翰の叡旨、御即位已來、皇國の禍禍を、悉く聖躬の上に御反求被爲在候勅諭にて、誠以恐惶感泣の至奉存候、偖勅諭にて、幕府從前の過失を自反仕候得ば、多罪の至奉存候、臣家茂、不肖の身を以て、徒に重任を辱め、紀綱不振、内外の事、宸襟を奉煩候而已ならず、去春上洛の節、攘夷の勅を奉ずといへども、事實遂に難被行、横濱鎖港の談判すら、未成功の期限も難量、折柄、再命に依て上洛仕候上は、極而逆鱗に觸れ、嚴譴を可相蒙と、素より覺悟仕候處、意外の宸賞を奉蒙候而已ならず、至仁の恩諭を以て、臣家茂並大小名を赤子のごとく御親愛、將來を御戒飭被爲在候條、臣家茂一身の上に取、海岳の鴻恩、實以可奉報答さ樣も無之、自今以後、萬事の舊弊を革め、諸侯と兄弟の思をを成し、心力を合せ、臣子の道を盡し、太平因循の冗費を省き、武備を嚴に内政を整へ、生民を蘇息致し、攝海防禦は勿論、諸國兵備を充實仕、洋夷の輕侮を絶ち、砲艦を嚴整して、遂に膺懲の大典を興起し、御國威を海外に輝すべきの條件、彌々以勉勵仕、乍恐宸衷を奉休度奉存候事に御座候、乍併膺懲妄擧は仕間敷との叡慮の趣は、堅く遵奉仕、必勝の大策相立候樣可仕奉存候、尤横濱鎖港の義は、既に外國へも使節差出候儀に御座候間、何分にも成功仕度奉存候得共、夷情も難計候得ば、沿海の武備に於ては、益々以奮發勉勵、武臣の職掌を固守仕、大計大議は悉く國是を定め、宸斷を奉仰、皇國の衰運を挽回して、外は慢夷の膽を呑、内は生靈を保ち、奉安叡慮、上は皇神の靈に奉報、下は祖先の遺志を繼述仕度奉存候」

 孝明天皇
「勅答書の趣、横濱鎖港の一條、御請振不分明に付一橋中納言(※2)御諷問候、尤鎖港の成功は、是非共可奏條、更以書取言上の旨被聞食候、猶又御別紙被仰出候通、盡力勉勵可有之、御沙汰候事」
 別紙
「横濱鎖港の儀、精々可遂成功、且又諸國兵備致充實、洋夷の輕侮を絶との趣、達叡聞候處、此上は惣國の守禦緊要の事にて、差當り攝海の要港急務の上は、神速其功蹟相顯れ、人心安堵、不經數年、征夷の實相行、奉安叡慮候樣、御沙汰候事」

 家茂の答奉
「勅答書之内、横濱鎖港の一條、御請振不分明被思召、慶喜へ内々御沙汰の趣承知仕候、然る處、彌々鎖港仕候見込にて外國へ使節差立候儀に御座候間、是非成功仕候心得に御座候、尤も再度蒙聖諭候、無謀の攘夷仕間敷との趣、奉畏候、就ては彌々以沿海の武備充實候樣可仕と奉存候」

 ※1.藤原實美 急進的な尊王攘夷派の公家・三条実美。文久3年8月18日に起った八月十八日の政変で失脚し、京都から追放された。慶応3年(1867年)10月に大政奉還が成立し、12月8日に赦免されて復位。
 ※2.一橋中納言 将軍後見職にあった徳川慶喜。攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港方針を確定させた。元治元年(1864年)からは禁裏御守衛総督、摂海防禦指揮となり、慶応2年(1867年)12月に江戸幕府第15代将軍となった。

 可軒さん達が小便壺で手を洗ったり、スフィンクスをバックに記念撮影をしていた頃、日本では天皇と将軍の間でこのような書翰が交わされていた。
 攘夷を即日実行出来なかった言い訳に、孝明天皇からは一切言及のなかった横浜鎖港の一件を何故かいきなり提起する家茂。天皇に阿(おもね)って書いたというが、端から横浜鎖港は不可能だって分かりきっていたはずなのに…。

 注目の鎖港談判、果たしてどうなる!?

 ノート 参考文献
・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年
・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年

 Thanks, illustrations by 「いらすとや」さん





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Last updated  2024.06.23 02:32:38
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