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2024.06.23
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カテゴリ:池田可軒さん
 20代の若さで、外交経験皆無だった池田筑後守(可軒さん)の心身を疲労困憊させた、7回(もしくは9回)に亘る折衝は幕を閉じた。条約違反を重々承知のうえでの、失敗前提の交渉だったにもかかわらず、可軒さんは執拗に食い下がって全力を尽くした。しかし使命の達成はおろか、仏国海軍との共同軍事行動まで約束した「パリ約定(Convension de Paris)」に調印までしてしまったのだった。
 とはいえ、可軒さんはこの頃にはすっかり開国派になっており、“かえって意気揚々として得意のさまがあったのである” (田辺太一著「幕末外交談」より)。パリ約定の全文は以下のとおり。

 巴 里 約 定
 西暦千八六十四年六月廿日
 皇紀元治元年五月十七日
佛蘭西、日本兩國間に定めたる箇條、
佛蘭西皇帝殿下と
日本大君殿下と互之信義を表して、兩國和親の交誼を厚くし、又、貿易を盛んならしめん事を希望し、文久二年即西洋千八百六十二年以來政府の間に生ぜし難澁を、互に一致し格別之法に而所置すべき事を決定し、
佛蘭西皇帝殿下の外國事務ミニストル兼セケレタリードワンデロイスと、日本大君殿下之使節池田筑後守、河津伊豆守、河田相模守と正しく上件之旨を以て、左の箇條を決定せり。
 第 一 條
文久三年五月即西洋千八百六十三年七月 佛蘭西皇帝殿下之軍艦ケウシヤングに對し、長門國に於て發砲せる敵對の所置を改むるため
日本大君殿下之使節、江戸に歸着する之後三ヶ月にして、
佛蘭西皇帝殿下のミニストルに償金としてメキシコドルラル拾四萬枚を渡すへし。但其内拾萬枚は政府より出し、四萬枚は長門之領主より出すへし。
 第 二 條
日本政府は又
日本大君殿下の使節歸國の後三ヶ月之内、佛蘭西之船、下の關を通行するに方り、今ある所の障碍を除き常に此通路をして自在ならしめんか爲め、時宜に應て威力を用ひ、又佛蘭西海軍隊の指揮官と共に處置する事もあるへし。
 第 三 條
兩國政府にて左件を決定せり。則佛蘭西と日本との貿易をして盛ならしめんが爲めに、安政五年九月三日 即西洋千八百五十八年十月九日 江戸において結ひたる條約の行はるゝ間は、先般
大君殿下之政府外國貿易之爲め許せし減税法を、佛蘭西産物或は佛蘭西船輸入品利益之ため保存すへし、
故に此條約の存する間は、日本運上所にて製茶梱苞に用ゆへき鉛葉、ソルデールスル、はんだろふの類 筵、藤油 晝具用、青黛、ギブス 石炭之類、鍋、釜、小籠を無税になし、酒類、白砂糖、鉄、ブリツキ、器械、織麻、時計、袖表並鎖、硝子細工、藥種は五分税とし、鏡、陶器、衣服之飾、香具、石鹸、武器、小刀類、書物、紙、繪は六分税を取るへし。
 第 四 條
右之決議は安政五年九月三日 即西洋千八百五十八年十月九日 佛蘭西と日本と取結ひたる條約を全くするの箇條として、
兩國君主の調印におよはす施行すへし。此を以て上に記せる全權の人々、此決議を本紙弐通に認め、双方名を記し印を押し、巴里府に於て爲取替もの也。
 文久四年子五月十七日

佛蘭西外國事務ミニストル兼セケレタリー
ドワンデロイス(Drouyn de Lhuys)
日本全權委任使節     
池田筑後守 花印
河津伊豆守 花印
河田相模守 花印


 調印を済ませた可軒さん等一行は予定されていた英国他諸国への訪問を中断し、その日の21時にパリを去り、マルセイユから英船・オンクセントに乗船、スエズで英船・ラングーンに乗換えたりしながら、元治元年(1864年)7月18日午前8時にピー・オー会社所属・ガンジス号で横浜に到着したのであった。可軒さん、本当にお疲れ様でした。
 ――と言いたいところだが、2、3年は欧州にいるはずの可軒さん等が半年かそこらで帰ってきたことにより、使節団を出して朝廷に攘夷アピールの真っ最中だった幕府は驚愕。外国奉行や目付などを相次いで横浜に遣わし、香港なり上海なりに暫く身を潜めよという訓令を出し、遂には若年寄の立花出雲守までもが自ら横浜に急行して可軒さんの江戸入りを止めようとするも、開国の情熱に燃える可軒さんはそれくらいでは屈せず、馬を飛ばして東上した。途中の生麦村で竹本隼人正栗本安芸守(「ふらんすお政」に登場する栗本鋤雲)が阻止しようと待ち受けていたが、可軒さんの心に灯る炎は誰にも消せなかった。…とはいえ、登城を見合わせることには成功し、ひとまず可軒さん宅に落ち着いて差出すべき建白書の内容などについて話しあった。
 可軒さんが何を仕出かすか計り知れないので、幕府はその当夜、可軒さんを免職処分としたうえで知行半減、隠居、自宅謹慎(蟄居)の懲戒処分を下した。また23日には河津伊豆守、河田相模守や田辺さんまでもが免職のうえ逼塞または閉門の罰に処せられたのであった。

 ノート 参考文献
・明治文化研究会 [編]『明治文化研究 第2集』(日本評論社)昭和43年
  高橋邦太郎『悲劇の大使――池田筑後守事蹟考』
・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年
・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年





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Last updated  2024.06.23 23:30:22
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