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あんのういもやさいダイアリー

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2021.05.07
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カテゴリ:宇宙意識など


もちろん、私もそれについては1つか2つお話しすることができるが、それはここでの議論には属していない。
しかし、あなたの質問に沿って社会教育学を見てみると、それは私たちの地球上でどのように理解されて実施しているように、それは実際には若い人たちの教育や育成、つまり子供や若者に向けられたものでしかない。
教育学とメンタリングが実際の主役であり、カウンセリングとサポート、そして実際には社会教育学がそうでなければならない、いわゆるソーシャルワークによって果たされる。
私は今、スファートの全体と私が自分の人生で学んだことを理解しているので、この問題には何かもっと深いものがある。なぜなら、それは私が今、言ったことに関連するだけでなく、より奥深いものだから。

社会教育学は、ある人がいわば職業として学ぶものに対応するだけでなく、その結論として、教育と育成のために他の人に教える形で伝えることだけに対応するものではない。
これは社会教育学を学ぼうと決心した人が、何よりもまず自分自身を心理的に発達させ、教育しなければならないことを意味している。
なぜならばこの点で、自分自身に必要な開発を行い、築き上げ、発達させ、鍛え上げたときに初めて社会教育学を学び、他の人々を指導し、教育するのに必要な能力と技術も身につくから。
しかし、もしこのことが考慮されていないとしたら、残念ながらこの地球上で社会教育学に従事している人たちの大半は、私が生涯を通じて気づいたように、通常、教育学的な学習教材は単に隠蔽されるだけで、個人の精神的・社会的発展に関連した教育学に関しては何も行われないことになる。
その結果、社会心理学のワーカーは、与えられた図式化された学習教材と学んだことに従ってしか実践できず、自分自身では学んでおらず達成していないため、自分の人間との関係においてもそうなってしまう。
つまりこれらの人々は、何かを同胞に自分のものではないことを教えることを意味しているのだが、他人にはそうであるかのように装っている(社会教育学の学者のふりをしているのだから)。
そして、彼ら自身は自分自身と個人的な行動の中ですべてを解決し、築き上げてきたはず。これは悲しいことだが、残念ながら事実である。
これはそのような人が、性格の観点から分析されたときに何度も示される。ただその結果として、子供や若者への個別の支援は、本来あるべき姿が中途半端になってしまい、社会教育関係者が自分のことをすべて理解していないために、自分の個性を教えられる側に伝えることができなくなっている。

社会教育学者の仕事を見ていると、少なくとも私が個人的に知っている人たちや、あちこちで仕事をしていて、これを耳にしたり読んだりしている人を見ていると、彼らが彼らの家庭教師、教師、そして教育者は彼らをクライアントとしてしか見ておらず、人間として見ていないのを見ると恐ろしさを感じる。
例えるなら、何の関係もなく使っているだけの機械が、プログラムされたものを自動的に実行して動作する場合と同様に、操作者自身は機械の内部の仕組みについて何も学んでいない状態に似ていると思う。

社会教育学は原則として、子供や若者の指導や育成だけに向けられるべきであると考えるのは誤りである。
事実上、社会教育学は大人の人間の領域にも影響を及ぼし、実際には生涯を通じて、つまり各個人の到達可能な最高年齢にまで影響するから。
なぜなら、社会的な知識と実践に基づく社会的行動は生涯を通じて常に学ばなければならず、一方では、人類の社会的行動が絶えず変化し、価値が高まったり下がったりするからである。
これまで述べてきたように、その機能は大人のすべての年齢層にも必要であるため、社会教育学は、子供や若者だけに適用するだけでは十分ではない。これは、社会的知識とその結果として生じるすべての非常に多様な行動(対象に応じて、人々はさまざまな行動を持つため、その結果、特に均一な行動を示さない)と、それが示す必然的に関連する77の学習要素、つまり、人間が努力してやり遂げ、包括的な心理的人格形成のために不可欠なものを身につけなければならないものは、完全な社会教育学だけだから。

社会教育学は、地球上での特別な仕事としてある程度、いわゆるソーシャルワークの中にも取り入れられているが、それも原則として、親の環境が悪くて良い育ち方を知らない子供や若者、あるいは街を徘徊していてその過程で犯罪者になってしまうかもしれない子供や若者に関してのみ有効である。
社会教育学はまたソーシャルワーカーではなく、民間の支援者や宗教団体、または組織によって行われているが、路上に住む生活者のための特別な社会的事例において、枠組みの中で特定のケアの形で実施されている。

あらゆる形態の社会教育学とその実践においては、優れたコミュニケーション能力と決定的な社会的能力の両方が非常に重要である。
また、必要不可欠な共感能力、明確で中立的な心理学的性格の認識とその特殊性に関する評価能力も重要だが、このような知識があって初めて、関係者に役立つ義務を果たすために最善の方法で対処できるから。
しかし、まさにこれらの重要な識別、判断、行動の必要性は、社会教育学に関して地球上では学習されておらず、その結果、明示的に使用されていない。
社会教育学に関してここで言及する必要があるのは公共サービスだけでなく、教育機関、社会的機関、民間部門、教育機関、学校、その他様々な教育機関、介護施設、社会福祉事務所、カウンセリングセンター、青少年センター、家族相談、保健所、その他多くのさまざまな分野に関連して特定の重要な役割を果たしているが、あくまでも部分的な分野としてのみであり、私が説明したような効果的な社会教育学に対応する枠組みの中にはない。
優れた分析的思考と、子供や若者、大人との直接的な個人的接触は、すべての社会教育的活動の非常に重要な部分に対応しており、絶対に欠かせないものである。

さてあなたが実際に、根本的かつ明示的に尋ねた社会的知識に関連して説明すべきことは、人々は幼少期から単に物質的なものや価値観、条件などを必要としているわけではない。
なぜなら、これらは人生や仕事を円滑にし、喜びや楽しみを生み出す外的な価値観や非価値観に対応しているだけであり、逆に怒りや害悪、迷惑などを生み出している。
成長期の人が生まれてから幼少期、青年期、そして人生を通じて、本当に根本的に必要としているのは、何よりもまず保護されること、つまり、悲惨さや苦難、悪や災難からの思考や感情が保護されること。また、これには:

1.保護者は、能力の目標とする開発を促進するために両親の義務による後援から、心理的に条件付けられた人格の基本的な開発とそれに関連するすべての要因を通じて認識され、そこから人は、より広く広がる人格を具体的に構築し、方向付けることができる。

2.さらに人はまた、生まれた時から完全な成人および一般的な自立の日まで、脅威に対する保護と適切な措置を必要とし、それまでは通常、両親はこの保護の義務を負い、生活の理想的な支援と構成に関して責任を有する。

3.社会教育学を通じて人に教えられるべきもう一つの重要な要素、それは基本的には生まれてから成人になるまでの両親の義務であるが、好かれたり、感謝されたり、真剣に受け止められるという思考や感情を知り学ぶこと。

4.基本的に、両親から教育や育成として人に教えられるべき社会教育学は、人間社会での正しい交際も含まれており、それには善良で正しい友人や知人関係、有用な情報を得ることのできる繋がりなども含まれている。

5.社会教育学は基本的に指導的であり、人々が精神的にも感情的にも役立つと感じるという意味で建設的なものでなければならない。

6.社会教育学は人間が本質的な程度まで、自分の考え、意志、欲求、行動、自由に関する自分の意思決定力や、意味のある活動などをいつでも実現できるという事実を、指導的に描き出さなければならない。

7.社会教育学は、人々に生命の長期的な活力を合理的に発展させることを根本的に教え、恐怖、犯罪、うつ病、敵意、薬物使用、アルコール依存症、絶望感、あらゆる依存症やその他の退廃に対する脆弱性から人間を保護するために決定的に不可欠である。

原則として社会教育学の実践は、世話をする人や指導・教育を受ける人(子供、青年、成人)に教えるべき知識のあらゆる可能な社会的要因を、コンプライアンスに適した形で深く指摘・説明するような形で、広く啓発・指導するものでなければならない。

社会教育学の実践において重要なのは、教えられ、世話をされ、教育される人の個性を認識し、それを理解することである。なぜならこのようにして初めて、正しい社会教育学的アプローチが認識され、実践することができるから。
つまり、子供であれ、青年であれ、大人であれ、教育と育成を成功させるためには、それが通常の親的な形で行われるか、学習的な社会教育の形態で行われるかどうかに関係なく、すべての関係において、個々の人間がその人に合った方法で個別に進めなければならないということを意味する。

また、社会教育的に対象となる各個人の一般的な状態が、健康面では健康か病気か、富裕層か中流層か貧困層か、高度な知識か通常の知識か、職業訓練および一般的な知識や一般的な教育についての良し悪しに関わらず良好であり整っていること、これらすべてにおいて考慮すべき特別な特徴がある。

社会教育学の実践においては、社会における立場や認識、また対人関係や関係者の一般的な評価も重要である。これに加えて、医学的、社会的、経済的、宗教的信仰関連の状況も考慮に入れる必要がある。なぜなら、これらの要因すべてが、社会教育的指導をどの程度行われるべきか、行われることができるか、行われる可能性があるか。
またこれらすべての要因は、それが親であるか、一般的に伝統的であるか、純粋に一般的な教育学的なものであるか、社会教育学的なものであるかに関係なく、あらゆる形態の指導と育成の成否を決定する。
特に重要なのは、人と接する際の手順や心理的に正しい方法、そして社会的要因などで、これらは根本的にすべての人々が影響を受け、自発的かつ通常は無意識にネガティブまたはポジティブをコントロールすることができるものである。

特に、ソーシャル・ペダゴジーを実施する上で知っておくべきこと、理解しておくべきことが重要である以下の要因は、優れた心理学的な知識とカウンセリング、サポートのスキルがあって初めて、有効な方法で満たすことができるものである。

1.社会の中で社会的地位が低い人は、健康や福祉の面で苦しみや病気の影響を受けやすく、その結果、通常、社会的地位が高く健康で栄養状態の良い人に比べて平均寿命も短くなる。
人の社会階層が低いほど、その人の社会的状況はより困難でネガティブなものとなり、それは健康状態、ひいては生活の質にも強い悪影響を及ぼし、また、社会的に高い地位にある人々との平等に関する教育、思考、感情、精神にも影響を与える。

2.幼少期や青年期に両親から、あるいは成人してから家族や友人、知人との付き合いの中で、また国やその他の仲間から支援の面で無視された場合、一方では人格の発達がうまくいかず、他方では価値ある人格の発展と構築が損なわれ、本人に生涯にわたって悪い影響を及ぼし、場合によっては、より恵まれた環境にいるすべての人々への羨望や妬み、憎しみを抱かせるようになるかもしれない。

3.もし人が、ストレスの多い状況下で生きていかなければならないとしたら、その人は、自分が存在できるかどうかについて常に不安と恐怖を感じながら生きていることになる。
また一方では、自分の負担の大きい運命を変えることができない無力感に苛まれ、他方では、生活必需品を買うことさえできずに他人の善意に依存しているため、貧しくて多くのことをしなくてはならない状態で生きていることになる。
それによって、健康上の必要性と不幸に応じて早死にしたり、仕事に支障をきたしたりすることになる。また、自己決定行為や人間としての権利は、多くの人間関係の中で損なわれるだけでなく、環境や仲間の人間によって、つまり社会から追放されることによって完全に妨げられることになる。

4.社会から追放されたり、社会に受け入れられたりせず、社会の外で生活しなければならない人は、自分にとって有害な社会的排除の中で生活しており、そのため、秩序ある社会のすべての利点や利益も得られない。しかしこのことは、当事者に多くの困難をもたらし貧しさだけでなく、個人的な苦しさや落胆ももたらす。
その結果、家族間の争いや家族の崩壊、家庭内暴力、社会的孤立、アルコール・薬物・麻薬への依存などが起こる。また、健康と幸福の見通しはますます暗くなり、衰退し、完全な崩壊の時点まで悪化し、それによって最終的には人生の見通しもますます暗くなり、おそらく最終的には必然的に自殺で終わる可能性もある。

薬物依存症は、人生の展望の一部が崩れたり、劣悪な生い立ちの結果として完全に崩壊したり、誘惑されて無茶をしたり、また、欲求不満や全くの愚かさなどから生じることは珍しくない。また、社会構造の欠陥、欠落、崩壊が薬物乱用の原因となることも多く、喧嘩、失業、愛されていない、または人気がないなどの理由で、麻薬などの薬物、アルコール、酩酊ガス、タバコ、違法中毒薬、有毒植物の毒草などの中毒に陥り、薬物中毒になる人もいる。

5.家族、友人や知人、職場、学校、軍隊など、どこかで何らかのストレスにさらされると、精神的に落ち着かなくなり、問題につながる。これらは心理的な面だけでなく、身体的にも悪影響を及ぼす。なぜなら、人の精神的な状態は、肉体的な状態にも影響を与え、免疫系を介した調節機能にも影響を与えるから。
その結果、健康な精神状態は、健康システム全体を向上させ、良いバランスを保つことができるし、悪い精神状態の場合は、健康バランスが低下してアンバランスになり、病気のリスクが高まる。このことについては、もっと詳しく説明するために本が書けそうだが。
人間関係において説明に必要なことはすべてそうだが、広範囲で事実に基づく説明は時間がかかりすぎるため、ここではこれ以上言うことはできない。

6.地球上の人類の人口が増えれば増えるほど、健康に害を及ぼす側面が非常に多くなる。
広範囲にわたる地球上の人間の愚かさの結果として、病気のリスクや人間の病気への罹りやすさに関するものを含め、あらゆる問題が絶えず増加しているということが原因(愚かさとは結局のところ、思考や理性の欠如に他ならず、意識の病気などとは関係がない)である。
それだけではなく総合的に見て、食べ物、薬、交通手段など、そして数え切れないほどの近代的な状況を通して、身体や器官全体がますます病気に罹りやすくなるだけでなく、また必要なそして、自然に与えられた通常の身体運動がすべて省略されているために、フィットネス機器の使用やマッサージで補おうとしているのだが、これは無意味であり、フィットネス運営者に経済的な利益をもたらすだけである。
確かに、プレヤーレンの専門家が研究したように、使用されているフィットネス機器によっては、特定の身体の部分や器官の物理的な動きの自由度は維持されるものの、必要な自然な動きは失われ、その結果、有機的にも健康的にも多くの部分が萎縮し、人間はそれによって病気に罹りやすくなる。

健康を維持するための人間の身体とその器官全体は、フィットネス・トレーニングのために設計されているのではなく、身体器官システム全体を適切に機能させ続ける自然な運動活動のために設計されているのだと、全体を研究しているプレヤーレンの科学者から詳しく説明を受けた。
そして彼らの説明は、実際には筋肉の機能や筋肉の動きなどを目的としたフィットネス・トレーニングとは相反するものだが、経済的な利益や知識不足のために全く間違った形で伝え広められ、医療関係者などの専門家であっても、表立って紹介されることはない。

一方では、デジタル化されたテクノロジーの急速な進展によって、関係する人々にも健康に害を及ぼす非常に多くの側面が生じている(地球人の意識状態によると、あまりにも早く発生し、コントロールできない)。他方では、仕事がなくなり生活を維持するためにお金を稼ぐ可能性も失われ、人間が完全に無関心になった結果、困っている仲間に何の援助もしなくなっている。

そしてこの事実は、健康システムに損害を与え、必然的に苦しみや病気につながる心配や問題につながる。これらはいずれも、それぞれのケースや社会教育的な実践やケアと同様に、すべての人に深遠な心理学的知識と共感を必要とする要因である。

7.社会教育学的ケアにおいては、ポジティブな性質の要素が非常に特別に重要であり、したがってこの点において、ケアや指導、教育を必要としている人々を正しい方法で社会教育学の保護下に連れて行き助けるためには、適切な心理学的方法で、善良で価値のある共感を持って進めることが必要であると言える。

そしてこれは、より裕福な界隈の人々にも必要なこと。なぜならこれらの界隈でも、健康を害し、社会的に堕落した薬物依存症などが蔓延しているから。

人間の生活の中で、自分たちの間の価値あるつながりは、良好な人間関係の中でも特に重要なものである。
これは何よりも必要な対人関係、友人関係、知人関係、そしてもちろん家族や近隣との関係にも当てはまる。

これらの要素を総合すると、重要な社会的支援に相当し、それらが強力であるほど強力でつながりのある支援的なソーシャルネットワークを形成し、つながりの効果があるだけでなく、思考や感情の世界を前向きにサポートし、精神を蘇らせることができる。
これはさらにまた、人間の健康システム全体、したがって何よりも免疫システムがそれから恩恵を受け続けることになる。
このような社会的支援ネットワークはまた、社会の平和的な安全と平等を促進する。
このことは、お互いを理解するという意味での社会的ネットワークだけでなく、義務を負い、尊敬され、感謝されることで、家族の輪、友人関係、知人や地域社会に溶け込んでいくことにもつながる。本人にとっては、自分が大切にされている、愛されているという思いや感情につながり、それが全体として一般的な幸福感として表現され、また、仲間との付き合いも容易になる。

社会教育学の適用と目的は、厳密に言えば、さまざまな形態の社会の中で特別な状況や人生の局面を生き、困難に陥った人々を一方では支え、安定させるための厳格な心理的努力に対応するものであるが、他方では、場合によっては助言や指導を行うこともある。
必要に応じて、心理学的に適応した教育を提供すること。
しかしこれは、子供や青年だけでなく大人にも当てはまる。なぜなら、多くの人は高齢であっても、指導やカウンセリング、ある種の教育的要素が依然として必要であるため、年齢に関しては制限を設けることはできない。
ただしこの点に関しては、教育方法は心理学的に異なる性質のものであり、子供や青年とは異なる方法で対処する必要がある。
しかし、これを今、それについて説明し続けるには、議論する側面を個別に説明する必要があり、それは行き過ぎるので、おそらく行き過ぎた話になるでしょう。

第766回会見  (ビリー)エドゥアルト・アルベルト・マイヤー​





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最終更新日  2023.03.14 18:13:37


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