茨木のり子さんの逝去日に・・・(語り8)
鋭い批評精神とヒューマニズムに裏打ちされたみずみずしい表現で戦後女性の生を歌い上げた詩人の茨木のり子さんが東京都西東京市の自宅で死去していたことが19日分かった。79歳だった。(asahi.com抜粋) この訃報を知ったのは、V.I.P takenokoisyaさんの日記だった吾の大好きな詩人であるショックだ・・・もっともっと彼女の詩を受け取りたかったまたしても語るに足りない吾ではあるがお許しを頂き、ここに哀悼の誠と共に一篇の詩をおかせて下せーまし【いつものように下記下線のタイトルをポチッとしていただくと、語りBARに飛びまする】【手記よりも聞いてみてにゃ】自分の感受性くらい ここを↑ポチッとしてにゃぁ~(音声聞こえんかったら、PCのボリューム上げてくんろ~) ぱさぱさに乾いてゆく心をひとのせいにはするなみずから水やりを怠っておいて気難しくなってきたのを友人のせいにはするなしなやかさを失ったのはどちらなのか苛立つのを近親のせいにはするななにもかも下手だったのはわたくし初心消えかかるのを暮しのせいにはするなそもそもが ひよわな志にすぎなかった駄目なことの一切を時代のせいにはするなわずかに光る尊厳の放棄自分の感受性くらい自分で守ればかものよこの詩に寄せる茨木のり子さんの手記より ここを↑ポチッとしてにゃぁ~ 実は、この詩の種子は戦争中にまでさかのぼるんです。 美しいものを楽しむってことが禁じられていた時代でしたね。でも、その頃はちょうど美しいものを欲する年ごろじゃありませんか。音楽も敵国のものはみんなだめだから、ジャズなんかをふとんかぶって蓄音機で聞いたりしてたんです。隣近所をはばかって。 それに、一億玉砕で、みんな死ね死ねという時でしたね。それに対して、おかしいんじゃないか、死ぬことが忠義だったら生まれてこないことが一番の忠義になるんじゃないかという疑問は子供心にあったんです。 ただ、それを押し込めてたわけですよね。こんなこと考えるのは非国民だからって。そうして戦争が終わって初めて、あのときの疑問は正しかったんだなってわかったわけなんです。 だから、今になっても、自分の抱いた疑問が不安になることがあるでしょ。そうしたときに、自分の感受性からまちがえたんだったらまちがえたって言えるけれども、人からそう思わされてまちがえたんだったら、取り返しのつかないいやな思いをするっていう、戦争時代からの思いがあって。だから「自分の感受性ぐらい自分で守れ」なんですけどね。一篇の詩ができるまで、何十年もかかるってこともあるんです。この詩は、これからも吾の歩むべき道への、志にかわりはないその事を、ここに改めて茨木のり子さんへと宣誓させて頂きまする記:2006.02.23 13:12:55