ハーバード経済日誌(その58)
大晦日の思い出 クリスマスと同様、1996年の大晦日はワシントンで一人淋しく過ごしていたから、あまりいい思い出がない。というか、何をしていたかも覚えていない。おそらく、テレビでくだらない番組でも見ていたのだろう。記憶はちょうど、消去されたカラのテープのようになっている。クリスマスと違って、大晦日に一人でいることのほうが、私には寂しく感じることがある。私は少々、変わった家で育ったので、小学生だったころの正月といえば、決まって家族マージャンをしていた。その年のお年玉も、マージャンの勝敗で決まるという下克上。兄であろうと、負ければ弟よりもお年玉の額が少なくなる。そのような騒がしい正月に慣れていたため、静かな正月だと正月を迎えた気がしない。しかし、これまで何度か海外で正月を過ごしているが、日本の正月と比べて静かな正月が多いような気がする。私が初めて日本国外で正月を迎えたのは、1981年。場所はフランス・ボルドーから東に15キロ離れたブリーブという小さな田舎町だった。当時私は、イギリスのカンタベリーにあるケント大学に在籍していたが、イギリスの冬はあまりにも暗いので、一ヶ月の冬休みを利用して独りで南仏に行くことにした。行きはスイスのジュネーブまでのチケットを買い、帰りはフランスのボルドーからカンタベリーまでのチケットを買った。では、ジュネーブからボルドーまではどうしたのか? なんと無謀なことにヒッチハイクで移動したのだ!夜行列車で到着したジュネーブから“冒険”を開始。雪が降りしきるスキー場地帯をヒッチハイクしながら進み、フランスのアネシーとラ・クルザでスキーをして1週間過ごした。その後、再びヒッチハイクして南下。スコットランド仕込みのヒッチハイクテクニックを駆使して、並み居る他のハイカーを押しのけ(別に物理的に押しのけたのではありません。念のために)、快調に南仏へと向かった。南仏ニースは思っていたとおり、夏のように暖かかった。ビーチではなんと、水着姿のお姉ちゃんやお兄ちゃんがビーチバレーをしている。冬の国から南国に来たような雰囲気だ。太陽も日本と同じようにちゃんと午後5時ごろに沈む。午後3時に沈む冬のイギリスとはまるで別世界だった。気候はよかったが、南仏は金持ちが多いので、ヒッチハイクには苦労した(金持ちは強盗が怖いので、基本的にヒッチハイカーを乗せない)。途中の話は飛ばして、コート・ダジュールのユース・ホステルでクリスマスを過ごした後、ボルドーへ向かった。ところが、夏のように暖かかった南仏をいきなり寒波が襲い、何十年ぶりという大雪に見舞われ、再び凍えながらのヒッチハイクとなった。寒さや飢えと闘う過酷な環境の中、時々はめげそうになりながら、ようやくブリーブに到着したのは、12月31日だった。ブリーブでは、ユース・ホステルに泊まれば、誰かほかにもバッグパッカー(貧乏な旅人)がいるだろうと思ったが、午後4時時点で私一人だけ。なんと、ベッドがたくさん並んだ、このだだっ広い宿泊所に一人で泊まるのか、それも大晦日に! そう意気消沈としているところへ、もう一人、チェエクインした女性がいた。この地方に遊びに来ていたパリジェンヌで、彼女もユース・ホステルならばパーティーなどでにぎやかなのではないかと思っていたという。一人よりも二人のほうが楽しい、ということで、二人で夕食を作り、二人だけのディナー。夜も10時ごろになり、ちょっとロマンチックな雰囲気になってきたな、と思っていたら、そこへアメリカ人のバックパッカーの団体(5~6人)が入ってきた。彼らは疲労困ばいしているようで、我々がそばで大晦日のディナー中であることには目もくれず、ベッドに寝袋をセットすると、瞬く間に大いびきをかいて寝てしまった。ロマンチックなムードもこれで台無し。気分直しに二人で外に出て、新年は近くのカフェで迎えた。元旦には、彼女は公共交通機関を使ってパリに戻り、私はヒッチハイクでボルドーに向かった。しかし、元旦からヒッチハイクをするのは、はたから見れば異常な行動だ。私が郊外に向かって歩いていると、警官が二人やって来て私に職務質問を始めた。私は別にやましいことは何もしていないので、私が英国の大学の学生であることや旅行中であることをちゃんとフランス語で話した。彼らも納得して立ち去ったが、おそらく近所の人が、元日早々から怪しげな東洋人がふらついていると通報したのではないか、と思った。ボルドーには、その日の午後2時ごろには着いた。ボルドーのような大きな町でもお正月は静かで、お年寄りたちがいつものようにペタンクに興じていた。元旦の緩やかな日差しの中で、時計はゆっくりと時を刻んでいた。それでは皆様。よいお年をお迎えください。2005年が素晴らしい年でありますように!