新聞記者の日常と憂鬱60
▼富山の正力18(すさまじい権勢欲)A級戦犯としての嫌疑が晴れた正力ではあったが、読売新聞にすぐに復帰することは叶わなかった。「日本の侵略計画に関し政府に於て(おいて)活発且(かつ)重要なる役割を演じたるか又は言論、著作若(もしく)は行動に依り好戦的国家主義侵略の活発なる主唱者たることを明らかにした」として、公職や報道機関の仕事から追放される公職追放者となったからだ。しかし、正力は執念深く、公職追放が解かれる時期をひたすら待った。社内の動きは、自分が配置した“スパイ”の情報により手に取るようにわかるようにしていた。公職追放中に正力の悪口を言った者や呼び捨てにした者を決して忘れなかった。反正力の動きや裏切りも決して許すことはなかった。すさまじいまでの権勢欲である。1951年8月に正力の公職追放が解除されると、じわじわと報復を開始する。自分を呼び捨てにした幹部を衆人の中で面罵、その後も出世させなかった。絶対服従を示さない社員は徹底的にいじめ、冷や飯を食わせ続けた。すでに66歳になっており、普通なら引退してもおかしくなかったが、正力は読売新聞に君臨し続ける。さすがに正式な役員に返り咲くことはなかったが、重要決定事項は正力の承認なしでは決定できないようにした。そして、誰にも社長の座に座らせようとはしなかった。正力は読売新聞を支配するだけでなく、多方面においてさらに強大な権力を握ろうとした。1952年には日本テレビ放送網を設立して、社長に就任。1955年2月には、故郷の富山二区から保守系無所属で出馬、衆議院に初当選する。ところが政治家として忙しくなっても、読売新聞社長の椅子は空席のまま。周囲から誰かを社長に据えるよう進言されても、頑として聞かない。社長空位の時代が延々と続いた。その社長の座に、20年にわたる空位期間を経て務台が就任したのは、正力没後約半年が経った1970年5月のことであった。(続く)