新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編37)
▼中野富士見中学いじめ自殺事件3鹿川君へのいじめに対し、家族は手をこまねいて傍観していたわけではない。息子がいじめられていることを知った厳格な父親は、息子のだらしなさをしかる一方、いじめた子供の家に何度か抗議に行ったという。しかし、そのことがかえって、鹿川君へのいじめを陰湿にしていった。「チクった」ことに対する仕返しである。三学期の始業式の日に暴行を受けた後、鹿川君は前にも増して学校を欠席するようになった。こうした事態に、担任教師の認識は甘かった。この担任は数年後に定年を控えたおとなしい教師で、鹿川君の欠席も「ズル休み」程度にしか思わず、いじめの事実を知っていても生徒たちにも強く指導することはなかったという。鹿川君が最後に登校したのは1月30日であった。5時間目が始まる午後一時過ぎに顔を出したが、授業には出なかった。見咎めた別の教師が教育相談室に鹿川君を連れて行き、悩みを聞いた。その後担任と鹿川君の母親を交えて話し合ったが、担任はその席上、転校を勧めたという。この話し合いが開かれている際、姿が見えなくなった鹿川君を探していたツッパリグループの三人は鹿川君のスニーカーを便器に捨てていた。「もう嫌だ」――。その日は結論を出さずに帰宅した鹿川君の苦しみの胸中はいかばかりだったのだろうか。来る日も来る日もいじめられる毎日。翌31日、鹿川君は家を出たまま行方がわからなくなった。夜になっても帰って来ない鹿川君を、家族は必死に探した。父親は池袋や新宿のゲームセンターなどを隈なく探し回ったが見つからない。鹿川君が見つかったのは、2月1日夜のことであった。場所は遠く、父親の実家がある岩手県。午後10時すぎ、盛岡市の国鉄(現JR)盛岡駅前のターミナルデパート「フェザン」の地下飲食街の公衆トイレの中で、鹿川君が死んでいるのを見回りの警備員が見つけたのだ。鹿川君はトイレ内の洋服掛けフックにビニール紐をかけ、首を吊っていた。同デパートは午後九時には閉店していたが、トイレのドアが閉まったままなので不審に思った警備員が覗き込んで発見。制服のポケットにあった生徒手帳から身元が判明した。13歳の少年の無残な姿。床には鉛筆で書かれた、次のような遺書が残されていた。「家の人、そして友達へ突然姿を消して申し訳ありません。くわしいことについては●●とか●●とかに聞けばわかると思う俺だってまだ死にたくない。だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ。ただ俺が死んだからって他のヤツが犠牲になっちゃたんじゃいみがないじゃないか。だから、君達もバカな事をするのはやめてくれ。最後のお願いだ。昭和六一年二月一日鹿川裕史」(注:●●にはいじめた同級生の実名が書かれていた)鹿川君の死を賭けた訴えは、いったいどこまで届いたのであろうか。