古神道は「水」と同じ
実は古神道には事実上、教義というものがありません。心を整えて、祈って、感じて、わかるという感覚があるだけなんですね。言葉ではほとんど説明できないものが古神道。古神道をたとえて言えば、水、もしくは水分みたいなもの。そこから派生した宗教は、キリスト教なら紅茶、イスラム教ならコーヒー、仏教なら緑茶みたいなものです。紅茶党なら紅茶に凄いこだわりがありますよね。その「こだわり」が今の宗教です。「紅茶(コーヒー)のほうが絶対的においしいのに、コーヒー(紅茶)を飲む奴は味覚がおかしいのだ。決して認めることができない」などと断ずるのが、原理主義者です。コーヒー党(紅茶党)から紅茶党(コーヒー党)に寝返っただけで、裏切り者・悪魔扱いされたりもします。ところが古神道は、ある意味いい加減です。というのも、紅茶も、コーヒーも、緑茶も、嗜好であって、一種の趣味みたいなものだとわかっているからです。「だって、どれも色と味の付いた水でしょ。みんな同じ」と見なすわけです。ある神道の神官の家系の方が、どうしてもキリスト教徒にならなければならなくなったので、長老家にお伺いを立てに行ったのだそうです。その方はその長老がものすごく怒って、キリスト教の洗礼を受けることをきっと許してくれないだろうと、びくびくしていました。ところが、その長老は「あっ、そう。別にいいよ。同じだから」と言って、いとも簡単に認めてくれたそうです。神道や古神道にとって、キリスト教もイスラム教も仏教も同じなんです。キリスト教も神道、イスラム教も神道、仏教も神道。神道・古神道には、それだけの奥行きと懐の深さがあるんですね。では古神道と神道の違いはなんでしょうか。厳密には、仏教、儒教、道教などの外来宗教の強い影響を受ける前の神道が古神道と呼ばれますが、そういう面倒くさい定義をする必要もありません。神道には神社(本殿)があります。古神道には杜(自然)がある。ただそれだけの違い。やっていることはほとんど同じです。心を整えて、祈って、感じて、わかる。ただそれだけ。かんながらの道があるだけです。だから神を感じ、わかることができるならば、それがどのような味や色の水であっても、「同じ」なんですね。「こだわり」がありません。(続く)