賀茂氏と秦氏69
いわゆる神武東征の際の勢力図が次のようであったことがわかります。丹波・若狭・近江・河内・大和:オオドシことニギハヤヒ。河内・大和:ニギハヤヒの補佐としてナガスネヒコ。山代・近江・摂津:オオヤマクイ。熊野・海上交通路:高倉下こと天香山(クマノクスビ?)。木(紀)国:オオヤビコ。大和(葛城周辺):八咫烏ことタケツノミ。日向・九州北東部・出雲の一部:イツセと神武。で、神武ら一行は瀬戸内海を東進するわけですが、そのときに天香山の一族が航路を確保したことがうかがえます。一行は河内から上陸したのですが、新参者の大和国参入に反対するナガスネヒコに撃退され、神武の兄イツセが命を落とします。おそらくこのとき、ニギハヤヒはかなり年老いているか、あるいは亡くなっていたのではないでしょうか。徹底抗戦派のナガスネヒコ(日ノ本将軍)の暴走を抑えることができなかったわけです。そこで神武らは天香山とタケツノミの援軍を得て、東の熊野から大和のナガスネヒコを攻める作戦に転じます。その作戦は成功しますね。こうして事実上の日向族の養子となった神武天皇が日向族の代表として王統に入ることができたわけです。神武天皇が果たして本当に天香山の子であるのかはわかりません。地政学的に見て、クマノクスビは高倉下の可能性が高いですから、竹内氏の『帝皇日嗣』が正しいとすると、サノノミコトこと神武天皇が天香山の子であったとしても不思議はありません。いずれにしても、神話上は日向族の皇子が大和国の王に就任する必要があったのです。神武の兄のイツセがナガスネヒコに殺されたことにより、サノノミコトが天香山(高倉下)とタケツノミ(八咫烏)によって統一王に担ぎ上げられたという筋書きがあったように思われます。(続く)