丹後半島をめぐる旅8
厩戸皇子(うまやどのおうじ)こと聖徳太子とつながることになったのは、11月のことでした。友人の娘さんが法隆寺で音楽を奉納することになり、奈良に向かったのは、11月17日でした。ちょうどその日東京で同窓会があったのですが、高校時代の国語の先生が私の著作に興味を持ってくださり、古代史の話になりました。その中で先生は、明治維新と大化改新はどこか似ている、聖徳太子の憲法17条の制定から始まる改革の動きは明治維新の動きと酷似しているのではないか、という話をされました。私はそれまで聖徳太子から大化改新までの歴史に特に興味があったわけではなかったのですが、このようにシンクロニシティが始まると、そうは言ってはいられなくなります。ほとんど予備知識なしの状態ですが、18日の法隆寺の音楽の奉納に立ち会い、夢殿や五重塔を見学したことは既に紹介した通りです。その法隆寺の音楽の奉納で浮かび上がってきたのは、蘇我氏と物部氏の壮絶な戦いの歴史でした。時代は聖徳太子の母親の用明天皇の時代です。物部守屋は仏教を排斥して蘇我氏と争い、塔を壊し仏像を焼きました。その後、用明天皇の死後、穴穂部皇子を奉じて兵を挙げましたが、587年には蘇我馬子に滅ぼされています。事実上の天下を握った蘇我馬子は、馬子に反発する崇峻天皇を592年に暗殺するなど権勢をほしいままにします。その最中の607年に法隆寺は聖徳太子によって創建されたわけですが、法隆寺を創建した背景には、滅ぼした物部氏に対する鎮魂の意味もあったのではないかとされているんですね。確かに法隆寺が建造された場所を見ると、物部氏の祖神とされるニギハヤヒの君臨地です。鎮魂でなければ、大阪の四天王子とともに物部氏を封印したということになるのかもしれません。ただし歴史はここではおわりませんね。非常に複雑な様相を呈してきます。(続く)