竹内文書と正統竹内文書(最後の武内宿禰)
竹内氏の『古事記の邪馬台国』は、「魏志倭人伝」で「伊支馬(いきま)」として登場した「伊久米(いくめ)」こと垂仁天皇の時代を最後にして、終わります。簡単に説明すると、崇神天皇の時代は大物主神を再認識する時代であり、垂仁天皇の時代は大国主神を再認識する時代であったということなのかもしれません。孝元、開化、崇神とニギハヤヒ系の血を濃く入れて、垂仁の時代は大国主系をより重用したということでしょうか。そうかもしれませんね。 いずれにしても、どこの血統かが重視された時代であったことは間違いありません。ヤマトトトヒモモソヒメでは大物主神を祀るのに適していなかったことは、オオタタネコの説話を読んでもわかります。 つまり系図を知ると知らないとでは、雲泥の差がでるということでもあるようです。その意味で『帝皇日嗣』には歴史を正す力があります。記紀を読んでもわからない系図が『帝皇日嗣』にはあるからです。 この後、竹内氏は二〇一七年八月に『古事記の暗号』を、二〇一九年二月には『天皇の秘儀と秘史』を上梓します。 その後、二〇二〇年一月一三日に帰幽されたわけですね。「竹内文書」の一時代が終わった気がします。生前竹内氏は「武内宿禰は第七三世で最後」と話していたそうです。もうこれ以上『帝皇日嗣』が外に出てくる可能性はない、ということかも知れません。もしそうであるならば、これまでに竹内氏が語った『帝皇日嗣』をまとめて、いつか本にできればなと思っています。(終わり)