ザ・イヤー・オブ・1980(その102)
ニームのユースホステルでゆっくりと休んだおかげか、疲れもある程度取れて、翌12月28日の日曜日は順調にヒッチハイクの旅をすることが出来ました。ちなみにヒッチハイクすることをフランス語では、「faire du stop」と言います。文字通り、車などをストップさせることですね。 この日はプロヴァンス地方の西端に位置するニームを出発、フランス南西部のラングドック・ルション(Languedoc-Roussillon)地方を経て、ピレネー山脈を背後に控えたミディ・ピレネー(Midi-Pyrénées)地方の玄関口であるナルボンヌ(Narbonne)まで進むことができました。ヒッチハイクの推定移動距離は、約150キロでした。累計推定移動距離はジュネーブから数えると、優に1300キロは超える計算です。 ヒッチハイクで1300キロと言っても、ピンと来ないかもしれませんが、簡単に言うと、東京から車で関門自動車道を経由して鹿児島まで走った距離に相当します。まだ今回のフランスの旅が終わったわけではありませんが、既に本当に随分長い距離をヒッチハイクで旅したなと思います。10~20キロの距離のヒッチハイクが成功して喜んでいたスコットランド旅行のころと比べると、格段の進歩です。ただし、「進歩」なのか「退歩」なのかは解釈が分かれるところですね。 当時の私にとってヒッチハイクは、とても重要な手段でした。フォルカルキエであったように地元の人と直接触れ合うことができますし、なによりフランス語の勉強になります。ただの移動手段ではないんですね。だから車に乗せてもらったときは、なるべくフランス語を話すようにしました。 疲れていても決して眠ることはありません。常に運転手のことを気に駆けるようにしていました。エク・サン・プロヴァンスかニームのような大都市の手前だったと思いますが、単調な道が続く幹線道路で、私ではなく運転手がウトウトし始めそうになったことがありました。その時は、「La route ici est très monotone.(ここの道路はとても単調ですね)」と意図的に声を掛けました。すると、運転をしていたその年配の紳士風の男性がハッとして目を見開き、「Oui, oui. C’est très monotone. (ああ、本当だ。とても単調だね)」と返事をしてくれました。そのときも、何事もなく目的地に到着することができました。 危険を回避できないこともありました。プロヴァンス地方の田舎道だったと思いますが、悪路の続く山道で、カーブを曲がったところで、道路上に30~40センチほどのごつごつした大きな石が目の前に落ちていてよけきれず、タイヤがパンクしてしまったこともあります。運転手と二人でタイヤをその場で交換して、先へと進みました。車の外は結構寒かったような記憶があります。でも、その時の経験が役に立ち、後に雪国富山に赴任したときも、タイヤの交換はお手の物でした。 そうした一つ一つのエピソードが挙げると、切りがありません。ただ、そうしたエピソードの一つ一つも、歳月が経つとセピア色にかすれて行き、場所も時間も人の顔さえもわからなくなり、最後はシェイクスピアが言うように「忘却の彼方(mere oblivion)」へと消えてゆきます。 フランス人はよく口癖のように「セ・ラ・ヴィ(C'est la vie.)」(それが人生さ)と言いますが、まさにそれが「人の一生」というモノなのでしょうね。 この日の推定移動ルートです。 例によって青線が推定ルート。一番長いルートだと170キロ、最も短いルートでは143キロとなっています。いつも最短距離で到達することはありませんから、だいたい150キロと見積もりました。(続く)