ザ・イヤー・オブ・1981(その146)
ウディ・アレンの映画でも取り上げられた米国の小説家ヘミングウェイは、実際に1920年代のパリでフリーの特派員として過ごして、最初の結婚をしています。カルティエ・ラタンの中心街でもあるデカルト通り(Rue Descartes)39番地のアパルトマンに部屋を借りて、そこで執筆していたといわれています。彼は実際に従軍した体験をもとに、『日はまた昇る』『武器よさらば』などの名作を20年代に書いていますね。ハードボイルド小説の先駆者で、ICUの一年生の英語コースで最初の一週間に読まされる英文本が彼の『老人と海(The Old Man and the Sea)』でした。 同じアパルトマンの一室では、それより前の1896年、フランスを代表する象徴派の詩人ポール・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)が没しています。隣説するレストラン「La Maison de Verlaine」の上にはヴェルレーヌに関する記念プレートが架けられています。ヘミングウェイもきっと、19世紀の偉大な詩人に思いを馳せたはずですね。こうして「死せる詩人の魂」は世代を超えて受け継がれていくわけです。 そのヴェルレーヌの詩の中から、「秋の日のヴィオロンの」で始まる上田敏訳で有名な「秋の歌(Chanson d’automne)」を紹介しましょう。同じ秋を歌った詩でも、ボードレールとは一味も二味も違います。 「Chanson d’automne」 Les sanglots longs Des violons De l’automne Blessent mon coeur D’une langueur Monotone. Tout suffocant Et blême, quand Sonne l’heure, Je me souviens Des jours anciens Et je pleure; Et je m’en vais Au vent mauvais Qui m’emporte Deçà, delà, Pareil à la Feuille morte. 私も訳せますが、上田敏の訳にはかないません。彼は「秋の歌」を「落葉」として訳しています。 落葉(詩:ポール・ヴェルレーヌ/訳:上田敏) 秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し。 鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ 過ぎし日の おもひでや。 げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな。 上田敏訳が優れているのは、この詩は言葉の意味よりも、音のほうが非常に深い意味があるからです。フランス語の持つ独特の音霊が見事な作品に仕上げられています。それを忠実に訳すと、日本語では五七調か5音で切って訳すしかなくなります。上田敏訳はそれを見事に成し遂げていますね。古語調でなく現代文調に訳すと、なかなかこうは行きません。 ヴィオロンとはヴァイオリンのことですね。ヴァイオリンよりヴィオロンのほうが、響きがいいです。秋風の悲しげな音がヴィオロンのように聞こえたのでしょう。加えて「オン(on)」とか「アン(an)」というフランス語の鼻音には、楽器のような音響効果があります。あえて簡単に説明すると、英語の詩がリズムや抑揚、切れ味の鋭さが特徴だとすると、フランス語の詩は音の響き具合が生命線になっているように思われます。 (続く)