ザ・イヤー・オブ・1981(その234)
対外試合が二種類あると言っても、実は勉学も大詰めを迎えているため、レギュラー選手だけですべての試合に出るわけにいきません。戦略としては、ケント州だけの大会には準一軍のメンバーで臨み、全国大学選手権のほうは1軍メンバーで臨むことになりました。ただし、私も最初のころはケント州の大会にも出場しました。ピーター・モンローという米国留学生と組んで戦いましたが、結果は私たちのペアは2勝1敗だったでしょうか。対戦相手もよく覚えていません。 大学選手権のほうは、もっと鮮明に覚えています。最初にどこかの単科大学に簡単に勝利して、次にブライトンにあるサセックス大学と敵地のコートで当たったのですが、私たちのペアは1勝2敗で、全体でも3勝6敗か4勝5敗で負けてしまいました。覚えているのは、テニスコートが室内コートだったことです。風船のように空気をドームに入れて膨らませ、泡(バブル)の膜でとり囲むように、内部と外部を遮断することから、バブル方式のテニスコートと呼んでいました。ですから室内に入るときは二重扉を開けて入ります。慣れていない、球足の速いテニスコートだったこともあり、負けてしまいました。 だいたい試合があるのは土曜日か日曜日なのですが、ケント大学からサセックス大学まではイアンかだれかの友達がレンタルしたバンを運転して、送り迎えしてくれました。ちょっとしたハイキング気分で試合に出かけるわけですが、負けたときはがっかりして疲れてケント大学まで戻ってくるわけです。ケントからブライトンまでは近いので日帰りの遠征旅行でいた。 1敗を喫したことから、私たちは次の週から敗者復活戦の旅に出ることになりました。 次に当たる相手は、イギリス南西部の有名な観光地にあるバース大学です。温泉のローマ風呂の遺跡がある場所ですね。もちろん、もともと温泉風呂「バース」があるところに古代ローマ人もローマ風呂をつくったわけで、先住民のころから温泉保養地だったのだと思われます。バースはケントからは遠いので一泊二日の遠征の旅となりました。 (続く)