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HANNAのファンタジー気分

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April 7, 2012
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 どこで読んだかというと、息子の高校受験問題集(国語)に載っていたんです。問題文だから、たぶん一部分ですけど。
 思春期の中学生が「二年の夏休み」を境に暴力的になってしまったりする現象を解説しています。こんなの、中学生自身に言って聞かせる内容じゃない気がしましたが(案の定、我が息子は、この文章をあまり理解し得なかったようです)、ファンタジー的には興味深いことが書いてありました。
 以下、「」内は「響く声・複数の私」よりの引用です;

 思春期には「自分自身、自分が何を考えているのか、よく分からない」状態になる。すると「なんだか煮え切らない」様子で、何をするにも「口ごもり、言いよどみ」「ためらい」、どうしていいか分からない。「感情が割れて」いるのである。
 中二の秋に「できあいの」不良になってしまう中学生たちは、この不安定な状態から安易に抜け出して、単純でうすっぺらなアイデンティティに自分をおさめてしまっている。
 しかし、本来、自我とはそんな単純なものではなくて、「さまざまな感情的な断片が入り交じった」状態、「微細な断片がモザイクのように散らばった複雑で繊細な」ものだ。それなのに、社会はその複雑さを評価せず、「人間本来の底知れなさを無視して単純な「型」」に押しこめようとする!

 つまり筆者は思春期ならではの自我の分裂(「複数の私」)やそのせいで精神的にも社会的にも立ち止まってしまうことを、人間本来の心の姿として肯定的にとらえようとしています。「感情の断片・・・その破片のひとつひとつの輪郭を手探りし・・・進んで味わう」べきだと説くのです。若いときには存分に悩め、ということでしょうか。

 そこで私が思いい至ったのが、ワタシ的にはいつもおなじみの『指輪物語』(トールキン)『冒険者たち』(斎藤惇夫)『ノーーライフ・キング』(いとうせいこう)でした。

 主人公である小人フロドを中心に9人「旅の仲間」が登場する『指輪物語』。良くも悪くも大事な「指輪」を運ぶ仲間ですが、これが種々様々なメンバーの寄せ集めです。種族も特技も性格も、利害関係も違いますから、仲良くいくはずがない。果たして仲間の一人、ボロミアがフロドから指輪を奪おうとするに至って、仲間は割れてしまいます。

 賢者エルロンドはなぜこんな寄り合い所帯の仲間に指輪を託したのか。むかし赤井敏夫氏が講演で、「旅の仲間」とは主人公のいろいろな面が、独立した人格になったものだというようなことを説明していました。それが内田氏のいう「複数の私」であり、だからこそ「旅の仲間」は不安定な状態なんですね。
 そのうえ、9人で旅する間じゅう、指輪所持者のフロドのふがいないこと。活躍の場もなく、態度も煮え切らず、どうしていいかわからない。主人公なのに、なぜ? と思いたくなりますが、これも自我が分裂状態にあって「口ごもり、言いよどみ」ためらっているのだとすると、納得がいきます。
 ところでフロドは思春期とはいいがたい年齢で、立派なオトナなんです。しかし、住み慣れた故郷の守られた生活から、戦雲立ちこめる広い外界へ出てきたばかりという点では、まさに「思春期」なのだと思います。

 オトナへと踏み出す思春期の少年のように、“ぽっと出の主人公”&“寄せ集めの仲間”が、危険な冒険に乗り出す。これは『冒険者たち』のガンバと15匹の仲間と同じ状況です。さして取り柄もない新参者のガンバがあれこれ癖のある仲間たちとどうにかこうにか危険を乗り越えて成長していく、その苦難の道のりこそ、アイデンティティの確立への模索の旅というわけです。

 さらに。分裂する自我とその一つ一つの自己主張のさまをすばらしく描いていると思うのが、『ノーライフキング』です。この物語の主軸になっているコンピューターゲーム(RPG)では、主人公「ライフキング」(=自我)が、最大の難所である「暗黒迷宮」を通過するために、自分自身を分割して「ハーフライフ」という分身をたくさん作るという技を使います。ただし、孫悟空の分身の術なんかとは違い、個々のハーフライフには、個性があるのです。その個性は「賢者の石」と呼ばれ、ハーフライフを正しく扱って正しく死なせるとその個性が主人公のポイントとしてゲットされる。・・・なんとも象徴的ですが、まさに、どのように思春期という「暗黒迷宮」を乗り越えるかの、現代的なヒントになっているように思います。
 この物語でゲームをプレイする少年は、自分自身の成分表を作成します。どんなモノが何パーセント集まって自分になっているかを何ページもつづり、しかも全部足して100パーセントになるよう書ききってしまうことができない・・・複数の分身から成る、未解明な自我。
 不完全で未到達な自分を、彼はどこまでも追求し、いとおしむ態度。それが、内田樹のいう「破片のひとつひとつの輪郭を手探りし・・・進んで味わう」ということなのでしょう。

 もうはるかに思春期を過ぎてしまった私ですが、そういう体験をどこかでしたような感じがしています。そのときの葛藤や、いろいろな自分を「生きている」という感じを、忘れないでいたいものです。


 

 





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Last updated  April 8, 2012 12:22:19 AM
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