外国語学習の原点に「朗読のときの自己陶酔」というのがあると思うのです。
テキストを読みつつ自分の口からネイティヴの雰囲気が湧き出て(すくなくとも主観的には)、別人になった気分になれるのが外国語をやる醍醐味のひとつです。 朗読をしていちばん美しいと思うのがロシア語。 大学で卒論までキリル文字で書いたのに、商社勤務では文豪プーシキンの言語は1秒も役立っていませんが。 「小説や詩や新聞記事をきれいな日本語で読む」。 きれいな日本語で文章を読めるようになりたいというのが、じつはわたしのあこがれであります。 え? 方言まる出しの生活をしてるの? いいえ、わたしもわたしの女も愛媛・松山あたりの出身なのに、東京では家でも東京語の生活です。 じつは小学校3年生から6年生までNHK松山で放送児童劇団におりました。 (だから今でも朗読のときは鼻濁音を意識します。) 会話文を読むのが上手だったのと声がよく通るのでテストに受かっちゃったのですね。 ところが地の文を読むのが下手で、子供の作文を読んでもトチってばかりいて放送局のひとは録音テープの切り貼り編集でたいへんだった。 そのうち作文朗読のお声がかからなくなり、放送児童劇団のなかで最も出番の少ない不遇の子になりました。 父親に「放送児童劇団はやめたい」と言っても、星 一徹みたいな人だったので許してくれません。 やむなく期限の小学校6年の秋まで続けて、しずかに消えました。 いま思うと、放送児童劇団にいたころは、日本語のアクセント規則がよく分かっていなかった、ないし誤解していたのだと思います。 放送児童劇団の入門レッスンで、単語たんいのアクセントのことは盛んに言われたのに、文章として読むときのアクセント規則について習わなかったのですね。 それで、「正確に読まなきゃ……」と思うあまり、文章を単語・文節たんいでぶつ切りにしてそれぞれのこま切れごとに正確なアクセントをつけて読もうとしていたような気がします。 すると、おかしな日本語になっちゃうんですね。 たとえば、きょうの「産経抄」の一文を例にとりましょう。 ≪民放のレギュラー時代劇枠はほとんどなくなり、時々のスペシャル版だけになった。≫ いまこれを読むとすれば、 み↑んぽうのレギュラー時代劇↓枠はほ↑と↓んどなくなり、と↑きどきのスぺシャル版だけ↓になった。 という抑揚をつけるでしょう。 でもたぶん、小学校のころの泉少年は、収録マイクを目の前にし、よかれと思って、こう読んでいた ―― み↑んぽうの↓レ↑ギュラー時代劇↓枠はほ↑と↓んどな↑くなり↓、と↑きどきの↓ス↑ぺシャル版↓だ↑け↓になった。 いま思えば、抑揚のつけすぎを盛んに注意されていました。 「念仏を唱えるように、抑揚なしで読んでみろ」 とまで言われました。 でも、泉少年はその指導がよく理解できなかったのです。 日本語のアクセントの妙は、諸言語と比べても独特だと思います。 「レギュラー」は「レ↓ギュラー」と読む。 でも「レギュラー時代劇」は「レ↑ギュラー時だ↓い劇」。 「レギュラー時代劇枠」は「レ↑ギュラー時代劇↓枠」です。 これができるかできないかが、日本語のよくできる外国人とネイティヴ話者の違いになっているといっても過言ではないでしょう。 文章を朗読してみると、自分の単語アクセントのあやふやさに驚くこともあります。 ≪新潟の雑煮の第一の特徴は大根の短冊切りがたくさん入ること。≫ これを「だ↑いこ↓んのた↑んざくぎりが」と抑揚をつけて読んだ瞬間、あれ? と思って辞書をひくと、 ガーン! 「大根」は平板式アクセントの単語なので、 「だ↑いこんのたんざくぎりが」 と読むのが正しかったのですね。 ≪ご当地の雑煮には塩鮭が欠かせないという。≫ 「し↑お↓ざけが」と読んでから、 あれ? ひょっとして? と思って辞書を引くと、これまた ガーン! 「し↑おざ↓けが」と読むのが標準的なのだそうです。 家族を調べてみると、わたしの女と娘ふたりは、 「大根を」は「だ↑いこんを」と正しく平板式で読み 「塩鮭を」は辞書に逆らって「し↑お↓ざけを」と読んでいました。 (たったいま改めて読んでもらったら、わたしの女は 「し↑おじゃ↓けを」 と正しく読んだ。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Jan 7, 2008 08:34:10 AM
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