カテゴリ:ぼくの疑問符
大阪人や京都人の何がうらやましいかといえば、
あらたまった儀礼の場でも土地のことばを使うことができる点だ。 これを「ことばの洗練」というのだろうが、大阪ことばや京都ことばは儀礼的なときにも下卑た冗談にも対応できる一言語としての幅の広さがある。 だから単なる方言ではないのだ。 この点、松山辯(べん)は儀礼の場では使いにくい。 大阪ことばと似てはいるが田舎ことばの悲しさで、居ずまいを正すと標準語に切り替えざるをえない。 日本国内よりもアジア諸国を出張して回ることが多いので、ホテルに着いてテレビをつけると地元のことばが流れるということに慣れ切っている。 そんな身で、たまに大阪に行ってホテルでテレビをつけると東京語が流れ出すのに一瞬戸惑うことがある。 「テレビのアナウンサーもとうぜん大阪ことばをしゃべっているはず」という無意識の期待が脳に組み上がっていたらしい。 「都である」とは、どういうことか。 「みずからの言語をはぐくみ育てていること」ではないかと思うのだ。 台湾の人口2,300万人のうち、客家(ハッカ)人は約300万人。 家庭のなかで必ずしも客家(ハッカ)語が継承されているとは言えない状況だが、言語の消滅を憂うる人々が客家語でラジオはもちろんテレビ放送まで運営している。 ニュース番組から藝能番組まである。 ちなみに北京語の知識では98%聞き取り不能の、独立言語である。 客家語のテレビ・ラジオ放送が可能なら、大阪ことばのテレビ・ラジオも可能である。 これはまじめな提案である。 大阪がそこに踏み出さぬかぎり、大阪は都たりえず、一地方都市でしかなくなるのだ。 きょう1月28日の 『北國新聞』 (金沢市) のコラム 「時鐘」 は、大阪人への辛口メッセージである。 これに触発されて、大阪語放送実現へのエールを発した次第。 全文、引用させていただく。 ≪修学旅行で大阪に行ったとき、引率の教師が空を覆う工場の煙を指して、成長ニッポンの象徴だと誇らしげに言ったことを覚えている。 公害問題が世間を驚かせる前の話である。 大空の煙や運河の泥水は、経済発展の懸命な汗とみられていた。 その工業都市や天下の台所という商都の歴史を持つ大阪が地盤沈下し、「あかんようになって」久しい。 ハコモノ作りに突き進んだ揚げ句、巨額の赤字に苦しむ自治体の代表選手になってしまった。 新しい大阪府知事に、テレビで名を売った弁護士が当選した。 売り物の茶髪をやめて、イメージチェンジを図ったそうだが、新首長の髪の色より、街がどう変わっていくのか。 いささか離れたご近所のよしみで注目したい。 あれだけ繁栄の時代を過ごしながら、大阪の遺産はどこへいってしまったのだろう。 自慢のタネがたこ焼きと串カツでは、浪速の食い倒れの名が泣く。 元禄文化を生んだ街で、元気があるのはテレビに出てくるお笑い芸能人というのでは、さみしくはないか。 煙が空を覆った後、文化に金を使うことをすっかり忘れてしまったようにお見受けする。もって他山の石としたい。 ≫ たこ焼きと串カツとお笑い藝能人にあっさり大阪を代表させてしまったあたり、さすがに大阪人には異論もあるのではないか。 いつになく辛口が極まった「時鐘」だった。 いずれの地方にもある危機感がしみでたのだと思う。 肯定的こじつけをすると、 「B級グルメ、B級カルチャーが元気なのは、A級を生む培養池」 なのかもしれないが、問題はA級が生れた途端に全国区モノとなり、みやこ東京へ移ってしまうという現象なのだろう。 A級が生まれ全国区モノになってもなお、核が東京に移らず大阪を溶鉱炉としつづけるとき、はじめて 「大阪も、みやこや」 といえるのだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[ぼくの疑問符] カテゴリの最新記事
|
|