皇居前の一等地、丸の内の買入れ。明治23年(1890)。
賢い参謀たちの意見をいれて三菱の2代目総帥・岩崎彌之助が決断したとき、こんな土地をどうするのかと聞かれて 「竹でも植えて、虎でも飼うかな」 とトボケた話は有名だ。 当時の商業の中心地が日本橋であり、維新政府の役所や軍施設が抜ければさびれた野っ原だった丸の内。 それにしても、地理的には疑いもなく一等地だ。 「竹でも植えて」 が、解(げ)せなかった。 成田誠一さんの 「三菱史ノート・千年くすのき」 の第12篇を読んで、疑問が氷解した。 ≪丸の内は不便なところだった。 現在の東海道線は新橋止まりであり、東北線は上野、中央線は御茶ノ水付近までだった。≫ (横から、若干訂正しておこう。 明治23年当時、新橋駅と上野駅は営業していたが、中央線は新宿・八王子間のみ営業で、東へ延びるのは遅れた。 四ツ谷駅開業が明治27年(1994)で、御茶ノ水駅まで延びるのが明治37年(1904)だ。) これを喩えれば当時の丸の内は、「ゆりかもめ」 のないお台場、京葉線のない舞浜みたいなものか。 丸の内買入れの4年後の明治27年には三菱1号館 (復元した建物が美術館として今年5月にオープン予定) が竣工する。 鉄道が新橋と上野まで来ていれば、追っつけそれらが丸の内あたりで結ばれようと考えるのが当たり前かもしれないが、実際に東京駅ができるまで、じつに20年も待たなければならなかった。 東京駅ができたのは、大正3年(1914)だったのだ。 長い20年だったことだろう。 ウィキペディアによると、 ≪新橋と上野を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年の第9回帝国議会でこの新線の途中に 中央停車場 を建設することが可決された。 実際の建設は日清戦争と日露戦争の影響で遅れ、建設工事は戦争終了後の1908年から本格化し、1914年12月18日に完成し、同時に 「東京駅」 と命名された。≫ ここで、また疑問が浮上した。 日清・日露の戦役があったとはいえ、明治の人々はなんでここまで悠長でいられたのか。 新橋と上野の間を、人々は人力車に乗っていたのだろうか……。 そうだ! 銀座を走る鉄道馬車の錦絵が歴史教科書にあったな。 * 同じくウィキペディアによれば、東京馬車鉄道 の最初の営業路線は、新橋・日本橋。 明治15年(1882)6月のこと。 日本橋行きだから、銀座の大通りを通ったわけで、当然丸の内とは縁がない。 日本橋まで敷かれた馬車鉄道は同じ明治15年10月に万世橋を経由して上野まで延びている。 なるほど、交通がまず整備されて然るべき都心部は、当時のハイテクが真っ先に導入されていたのだ。 急速に古びる、糞尿まみれのハイテクだけど。 馬車鉄道の業者にしてみれば、蒸気機関車に上野・新橋を結ばれたら商売上がったりになるから、何かと理由をつけて本格鉄道の延伸を阻止しようとしたに違いない……と、これは下種(げす)の勘ぐりである。 馬車を走らせていたところに電車を走らせだしたのが、明治36年(1903)8月。 まず新橋・品川間で実現している。 同じ明治36年9月に、東京市街鉄道が 「日比谷公園」-「馬場先門」-「大手町」-「神田橋」 に路面電車を走らせた。 この 「馬場先門」 の駅が、今でいう 「二重橋前」 あたり。 まさに丸の内駅である。 なぜ日比谷公園が起点かといえば、帝国ホテルがあったからだろう。 明治23年(1890)の明治節の日に落成している。 岩崎彌之助が丸の内買入れを決断した年だ。 13年後、「帝国ホテル前」 から電車が丸の内まで通じたとき、岩崎彌之助の喜びはいかばかりであったろう。 岩崎彌之助は明治41年(1908)に、東京駅の英姿を見ることなく亡くなっている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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