兵庫県というのは日本で最も県民意識のない県として知られる。
播磨地方も但馬地方も、神戸近辺との心情的親しさがいまだに、ない。
不自然に大きい。
県というより、道州制の広域行政区もどきだ。
(だからいっそのこと徳島県も合併して、神戸をハブとする大 「兵庫県」 になればいい、と拙著 『日本の本領(そこぢから)』 には書かせていただいたけれど。)
『NHK知る楽(らく) 歴史は眠らない』 の 4~5 月号 「県境の謎を行く」 (藻谷浩介もたにこうすけさん) を読んで、ようやく疑問が解明された。
なんと 「兵庫県」 という化け物は、財政難の明治政府が当時ただの寒村だった神戸を大貿易港へ育てるために、播磨(はりま)平野の豊かな実りがもたらす資本と、但馬(たじま)・丹波の絹織物という商品を神戸という新開地に集約させるための、じつに人工的な枠組みだったというのですね。
稀代の指導者、大久保利通の構想だったという説がある由。
嗚呼(ああ)!
地図をしげしげと見れば確かに、明石の西、加古川、高砂、姫路、相生(あいおい)から赤穂まで、広大な平野が広がる。
幾本も川が流れて、水にも恵まれている。
そのわりに今日、播磨地方は全国区の場所ではない。印象が薄い。
姫路城のような立派な遺産を残せるだけの財力と智力に古来恵まれた地というのに。
藻谷さんが書いている:
≪大阪から明石まで……(中略)……大きな城跡は1か所もありませんが、播磨国(はりまのくに)に入ると俄然大きな城が出てきます。
それは、昔から農業が豊かでたくさんの年貢が上がるため、城をつくるゆとりがあったからです。≫
≪そのため、織田信長の命で中国地方の攻略に向かった豊臣(羽柴)秀吉は苦戦を強いられ、結局、播磨を攻略するのに10年ぐらいかかっています。
播磨はそれほど大きな力を持っていたわけです。≫
NHKテキストの藻谷(もたに)さんの文章を読んで、なるほどと思ったのだが、要すれば播磨地方の税収がどんどん吸い取られて、神戸という港湾都市の建設に投下されたのである。
廃藩置県の当初、播磨地方は 「姫路県」 であり、その後 「飾磨(しかま)県」 と改名する。
神戸を中核とする兵庫県へ併合されて後も、飾磨県 「再置」 (= 播磨の独立) の運動が盛んに行われたが、ついに明治政府の認めるところとならなかった。
さあ、こういう記述を読むと、 <if 播磨地方が姫路を県庁所在地として飾磨県としてインフラ整備をしていたら……> という仮定に、想像が膨らむのである。
おそらく、古来からの繁栄の延長線上には、「百万都市」姫路があったに違いない。
広島市なみの繁栄都市が播磨平野にあったほうが自然だ。
日本統一に共に寄与した古代国家 「吉備国(きびのくに)」 の繁栄をよろしく思わぬ大和朝廷が、これを備前国・備中国・備後国・美作国(みまさかのくに)に分割して力を削(そ)いだ。
同じ大和朝廷が、明治の御代(みよ)にこんどは神戸港の殖産のために播磨国の力を削(そ)ぐこととなったとは、なんとも因縁深い。
*
姫路は、思い入れのある都だ。
姫路城には、中国人を数名お連れしたことがある。
美と智の巨大な結晶を、誇らかに思えた。
夜の姫路に米国人3名と繰り出したこともある。
「姫路は田舎だからタノシいところはありません」 という俗論を無視して路地を捜し歩いたら、かわいい女の子たちのトップレスのお店を見つけた。
いまでも彼女たちにしみじみ感謝している。
たぶんもう会うことのない彼女らへの恩義は、ほかの女の子たちにお返しすることで許してください……。
わが故郷の松山市も同じだが、姫路市は本来もっている実力を十分発揮しきれず今に至った都市という感じがするのだ。
勤務先の飄々とした部下が、姫路市出身である。
偶然だが、わが故郷の愛媛県出身の女性と結婚している。